【コラム】大和川つけかえに反対した人たち (10)付け替え後の新川筋の村々

2022年2月25日

 付け替え工事のあと、新川筋の村々では、反対嘆願書で訴えていたことの多くが現実のものとなりました。広い土地が川床となってしまった村、排水不良となり洪水が繰り返されるようになった村、用水が足らず日照りに苦しむようになった村などさまざまです。
 もっとも大きな迷惑を受けたのは丹北郡城連寺村でしょう。付け替えから40年ほどのちの寛保3年(1743)3月の「村方盛衰帳」(長谷川家文書)から、村の変化をみてみます。付け替え前に470石余りあった石高は、3分の1の159石余りとなりました。25町余りの潰れ地の代替地のうち、7町余りは旧大和川筋の渋川郡植松村の上と遠く、手離さざるを得ませんでした。残りの17町余りは西除川筋の冨田新田を開墾しましたが、地ならしや井戸掘りに多数の人を投入したにも関わらず、石高は94石余りでした。家数も80軒余りあったのが45軒に減りました。そして、西除川と落堀川にはさまれた土地は、田地だけでなく屋敷までたびたび水がつかるようになりました。さらに、新川堤防の維持管理や落堀川の川浚えなどの負担も増え、村の存続にかかわるような状態でした。たびたび幕府に改善を申し入れましたがほとんど受け入れてもらえず、その後も苦労は続きました。
 志紀郡太田村では、工事役人の宿泊の世話などで人手が多くとられたので、4~5年は年貢の減免などを考慮してほしいと申し入れていますが、実現しなかったでしょう。太田村も潰れ地3町余りの代替地を旧川筋に与えられていますが、ほとんど売却しています。
 そのほかの村でも同様でした。新川によって分断された村も多く、大阪市、松原市、藤井寺市、八尾市は今でも大和川の対岸に飛び地があります。また、新川の北側の村々は田畑の用水が遮断されることになり、新川の右岸堤防に樋を伏せて用水路を設置して用水を確保することになりました。これも各村の負担になりました。それでも用水不足で、のちのちまで困ることになっています。
 このように、新大和川周辺の村々は、大和川の付け替えによって苦しむことになりました。一方で、大和川より南側に、堺を中心とした泉州地域が形成され、大坂や河内と異なる文化圏を形成することにもなり、それが今も息づいています。付け替えて洪水がなくなってよかったというだけでなく、付け替えにともなうさまざまな事実に目を向けたうえで、大和川の付け替えについて考えていただきたいと思います。 (安村)

コラム10「若林村絵図」 (松原市所蔵、写真は松原市文化情報振興事業団提供)

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