【コラム】大和川つけかえに反対した人たち (9)付け替え工事と新川筋の村々

2022年2月25日

 元禄17年(宝永元年・1704)2月18日から新川筋に傍示杭が打たれて測量が始まり、27日に川下から工事に着手されました。付け替え工事の始まりです。これに伴って、新川筋の村々は工事への協力を義務付けられることになりました。傍示杭は予定地中心と、その両側50間に打たれました。新川の中心と川幅を示す杭です。中心の杭には紙の吹き流しがつけられ、杭と吹き流しは毎日とりはずして村で保管し、翌日また設置することになっていました。自分たちの村の領内の傍示杭の管理が、村に任されていたのです。
 工事が始まると、各村は人足に宿を提供することが命じられます。その際に、火の用心、喧嘩、口論、博打の禁止などが厳しく求められました。宿泊人の身元を調べておくことや金・貴重品などを預からないことなど細かい指示が出されています。幕府の役人の滞在中は、さらに厳しい指示がだされました。道で逢えば腰をかがめて挨拶すること、無作法があった場合は、どんな罪を受けても弁明しないことなど。
 宿の提供で多少の利益はあったでしょうが、宿泊人の世話や監視も行わなければならなかったのです。一方で、一定の工区の工事を地元有力者が請け負い、大坂の町人に下請けに出していた記録もあり、工事で利益を得る人もあったようですが、新川筋の村々にとっては、迷惑なことが多かったことでしょう。
 城連寺村では、宝永元年(1704)の4月26日から工事が始まりました。あたりには麦畑が広がっていて、もう少しすると麦の刈り取りが始まるころでした。しかし、すぐに工事が始まるということがわかり、まだ熟していない麦まで刈り取っていました。もう少しだけ工事を始めるのを待ってほしいとお願いしましたが、聞いてもらえませんでした。手伝ってくれる人を雇おうとしましたが、来てくれそうな人は付け替え工事に行っていて、手伝ってくれる人もいません。結局、10町(10ヘクタール)の麦の刈り取りが終わらないまま工事が始まり、麦は堤防の下に埋まってしまいました。城連寺村のほかにも、麦の刈り取りができなかった村があったようです。村の人たちにとっては、とてもつらいことでした。 (安村)

コラム 写真「城連寺村記録 乾」 (長谷川家文書、写真は松原市文化情報振興事業団提供)

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