【コラム】大和川つけかえに反対した人たち (8)最後の付け替え検分と反対運動
天和3年(1683)の検分の結果、付け替えではなく、河村瑞賢が淀川河口を中心とした治水工事を実施することになりました。貞享元年(1684)2月から工事が始まり、中断をはさんで貞享4年(1687)5月に工事が終わりました。その間の貞享4年1月ごろに付け替えの嘆願書が提出されています。瑞賢の治水工事中に付け替えの嘆願など幕府が聞き入れるはずがありません。これが最後の付け替え嘆願で、これ以降、付け替え嘆願書が出されることはありませんでした。
瑞賢は元禄11年(1698)5月から再び工事を実施しています。工事は翌年2月に終わり、江戸へ帰ってまもなく瑞賢は亡くなっています。どうやら、このころから幕府は付け替えの検討を始めたようです。
元禄16年(1703)の4月、5月に付け替え検分が実施されました。20年ぶりの検分に驚いた新川筋の村々は、堤奉行、幕府役人の宿、町奉行などに次々と嘆願に出向きますが、聞き入れてもらえませんでした。すでに付け替えは決定していたようです。
このときの付け替え反対嘆願の内容は、それまでと同じく新川による潰れ地、新川南側の水損場、北側の日損場などのほか、「新川の勾配は1町につき4寸下るようであるが、瓜破や上町台地では4~5丈(12~15m)も掘り下げなければならず、その土の捨て場で多くの田地がつぶれる。」という項目もあります。すでに測量や設計が進んでいたことがわかります。
新川筋の村々では、「村人は嘆き悲しみ、百日ほども一人としてゆっくり休む者もいない。老人や妻子の渡世もままならない。正月を祝う者もいない。」という状況だったといいます。そして、元禄17年(宝永元年・1704)1月15日に、村々の代表11人が江戸へ嘆願に向かいますが、途中で幕府から工事のために派遣された役人らとすれ違っています。江戸では、勘定奉行の荻原重秀の逆鱗にふれ、「付け替え反対ではなく、潰れ地の代替地を要望に来た」と取り繕うことになりました。それよりも前の1月18日に、すでに地元に付け替え決定が伝えられていたのです。(安村)
「乍恐奉言上候」(松永家文書・元禄16年)