【コラム】大和川つけかえに反対した人たち (6)天和3年4月18日付け反対嘆願書
ここで紹介するのは、天和3年(1683)4月18日付けの「川違迷惑之御訴訟(かわたがえめいわくのごそしょう)」(船橋村松永家文書)です。
天和3年の幕府役人の検分コースについては、前回に紹介しています。4月2日に柏原堤で幕府の役人にすでに反対の嘆願書を提出していたようで、その内容とほぼ同じだと書かれています。内容は、(1)川床で25,548石余り、左岸の水損場で14,700石余り、右岸の日損場で50,000石余り、合計で90,248石余りの土地が耕作不能となる。(2)河内国の半分にあたる百姓が付け替えを求めているが、でたらめな訴えをしているのでよく調べてほしい。(3)深野池・新開池検分の際に、周辺の村では、わざと麦を水没させていた。(4)大和川と石川が合流してすぐのところで付け替えたならば、二つの川の勢いですぐに堤が切れる。(5)小山村から川辺村まで低くなり、瓜破村へとまた高くなっているため、堤が破損する。(6)柏原村から川辺村までは土地が低く、それから下流は高くなったり低くなったりしているため堤を造るのも困難である。と書かれています。
嘆願書を提出した村々は、志紀郡柏原村、舟橋村、国府村、北条村、大井村、林村、沼村、小山村、太田村、南木本村と、丹北郡小山村、太田村、南木本村、津堂村、若林村、大堀村、川辺村、長原村、別所村、三宅村、東瓜破村、西瓜破村、住道村、城蓮寺村、矢田部村、枯木村、芝村、油上村と、摂州住吉郡庭井村、苅田村、我孫子村、杉本村、山ノ内村、遠里小野村、七道、安立町で、志紀郡10か村、丹北郡18か村、住吉郡8か村の合計36か村です。これらの村々は、それまでの検分で反対を訴えていた村々とほぼ一致します。つまり、このときに傍示杭が打たれたルートは従来から検討されていたルート(現在の大和川にほぼ一致する)だったことがわかります。
この反対嘆願書が提出されたのが4月18日です。おそらく、反対嘆願書の内容が吟味された結果、田辺村へ至る北寄りのルートが検討され、21日に新たなルートに傍示杭が打たれたのでしょう。それに対して、23日に新たなルート案周辺の村々が反対の嘆願書を提出したということになります。最初から北寄りのルートが検討されていたのではなかったのです。 (安村)
「川違迷惑之御訴訟」 (松永家文書・天和三年)