【コラム】大和川つけかえに反対した人たち (5)5回目の付け替え検分と反対運動
4回目の検分から7年後、天和3年(1683)に5回目の付け替え検分が行われています。この間、ほぼ5~6年ごとに付け替え検分が実施されています。それだけ大和川流域の洪水が激しかったことを物語っているのでしょう。
天和3年の検分は、2月18日に若年寄稲葉石見守正休、大目付彦坂壱岐守重紹、勘定頭大岡備前守清重らが、幕府から任命されて畿内一円の河川を検分し、その治水方法について検討したもので、新井白石の『畿内治河記』に検分ルートが記されています。
3月に、京都から賀茂川、白川、桂川をまわり、保津川を遡り、嵯峨から淀、鳥羽、伏見と淀川を下って大坂へ。大和川を亀の瀬まで遡り、深野池・新開池まで下り、周辺の小河川を見たうえで備前島、片町、京橋と大坂市中をまわり、平野川を遡って猪飼野小橋から狭山池まで上り、下って瓜破、依羅池、手水橋と付け替えが検討されている地をまわっています。さらに、船で中津川、神崎川、尼崎、堺、住吉、大坂とまわり、石川を赤坂までのぼり、亀の瀬をまわって生駒、初瀬、奈良、木津、宇治、石山、瀬田とまわって京都へ帰って検分を終えています。
この検分の最中の天和3年4月21日に新川予定地に傍示杭が打たれ、4月23日に27か村から迷惑を訴える「乍恐御訴訟申上候」(太田村柏原家文書)が提出されていたことが以前から知られていました。このときのルートは、船橋村から摂津国住吉郡田辺村、そこから東成郡安部野(阿倍野)村へと安立町へのルートでした。そのため、天和3年の検分では、従来のルートよりもかなり北へ寄ったルートで検討されていたと考えられてきました。
ところが、令和2年に新しい文書が発見されました。船橋村の庄屋だった松永家文書に、天和3年4月18日付けの「川違迷惑之御訴訟」があり、そこには、それまで知られていなかった新しい事実が記されていました。次に、この文書を紹介しながら天和3年の検分と反対運動についてみていきたいと思います。
参考文献:安村俊史「天和3年の大和川付け替え反対嘆願書」『柏原市立歴史資料館館報』第33号、2021年) (安村)
「摂河両国水脈図」大坂部分(柏元家文書)