【コラム】大和川つけかえに反対した人たち (4)4回目の付け替え検分と反対運動
延宝2年(1674)6月に、大和川・淀川で大規模な洪水があり、玉櫛川筋だけで35か所の堤が切れました。寅年だったので寅年洪水といいます。翌延宝3年6月にも玉櫛川筋で19か所の堤が切れる洪水があり、2度の洪水をまとめて寅卯洪水と呼んでいます。
この大規模な洪水を受けて、延宝4年(1676)3月15日に、大坂西町奉行彦坂重紹、船手頭高林又兵衛らが付け替え検分を実施しました。これに対して3月17日には付け替え反対の村々が大勢で西町奉行へ詰めかけ、一方吉田村の山中治郎兵衛が付け替え推進の村々を扇動して詰めかけ、大坂の町は大騒ぎになったということです。
付け替え反対を訴える新川筋の29か村は、「乍恐御訴訟」を幕府に提出しました。(1)先祖伝来の田地が川底となる。(2)川は南から北へと流れているが、新川は地形にそぐわない横川で多くの土地が水損場となる。(3)東除川から西除川にかけては地形が高くなり、西除川には多くの悪水が流れているので4~5万石は水損場となり、とりわけ13か村は水底に沈んで住むことさえできなくなる。(4)瓜破村領の20町ほどと、山之内村・杉本村領内の14~15町、合わせて34~35町は、新川を造るために2丈(6m)余も掘らねばならず、しかも堅い岩盤なので莫大な労力・費用がかかり、掘り出した土の捨て場としてたくさんの田地も潰れる。(5)旧川の川床や深野池・新開池に多くの新田ができるかのように言っているが、井路川や道の分を差し引けばほんのわずかに過ぎない。(6)新川は地形に反した横川で、距離も短く流れも急なので堤への水当りが強くなり、堤は傷みやすく補修に莫大な費用がかかる。(7)旧川には水が行かなくなるので、若江郡・渋川郡の村々は用水不足で日損を被ることとなる。(8)東除川から西の地形の高い所は、新川の川床の方が低くなるため、用水を確保できなくなり日損場となる。(9)主要な街道が6筋も通り、その他にも多くの道があるが、それらが寸断される。(10)延宝2年3年の洪水で被害を受けた川下の百姓が付け替えを願い出たと聞いているが、あの洪水は古今未曾有のものである。むしろ新川の堤が決壊すると、さらに多くの田地や人命を失い大惨事となる。というもので、どれももっともな理由です。この際には、村々の代表者9名が、付け替え反対の嘆願に江戸まで下っています。このときも反対の村々は、相当な危機感をもったようですが、その結果は付け替え見送りとなっています。(安村)
「付け替えに賛成した郡と反対した村」