【コラム】世界かんがい施設遺産 長瀬川と玉串川 (8)青地樋組との争い
築留(つきどめ)樋組(ひぐみ)は、河内において最も上流で新大和川から取水する用水になります。これより下流には、三番樋の下流約150mに青地(あおち)樋(ひ)があり、それより下流にも多数の取水樋が設けられていました。青地樋は平野川に取水するための樋であり、下流にも東除川や西除川などから取水していた村々が、新大和川堤防に樋を伏せて取水しており、新大和川右岸堤防に伏せられた樋は30基近くあったようです。
大和川の水量は普段は少なく、歩いて渡れるところも少なくありません。そのように少ない水を上流で多く取水してしまうと、下流では取水できなくなってしまいます。実際に、下流の村々から築留樋組の取水方法に対して、しばしば抗議があったようです。
もっとも大きなトラブルになったのは、青地樋です。青地樋は、平野川流域21か村の用水となり、やはり青地樋組という水利組合をつくって平野川の用水を維持管理していました。この青地樋組から、築留樋組の取水量が多いため、下流の村々の用水が不足していると築留樋組を相手に堺(さかい)奉行(ぶぎょう)に訴訟がおこされました。付け替え後の大和川は、堺奉行の管轄下にありました。
この訴訟に対して、宝暦10年(1760)に堺奉行が判断を下した関係史料が残されています。「宝暦十年築留水尾堀砂関御裁許」という史料であり、これに付随する絵図があります。絵図は通常の水位の際の築留樋組の取水方法と、大和川の水量が乏しくなったときの取水方法を2枚重ねで描いたものです。それによると、通常水位のときは、二番樋や三番樋の前に川の中央まで砂を詰めた高さ1尺の俵を並べて樋門に水を導いており、水量が少なくなると、長さ100間(180m)の水尾(みずお)を掘って水を導くことになっています。水尾とは、水を流すための溝のことです。要するに、築留樋組は大和川に流れる水の半分を取水してもいいことになっていたのです。おそらく石高(こくだか)で分配したのでしょうが、これでは下流の村々から苦情がくるのもやむを得なかったと思います。 (安村)
a.通常の取水方法
b.旱川(渇水期)の取水方法
築留樋前堀関仕方絵図(宝暦10年・1760年)〔当館保管柏元家文書〕