【コラム】世界かんがい施設遺産 長瀬川と玉串川 (7)「大和川分水築留掛かり」と経済
旧大和川の久宝寺川を中心に、剣先(けんさき)船(ぶね)という船が行きかっていました。その名のとおり先端が剣のように尖り、底が浅く平たい川船でした。長さ17.6m、幅1.9mの大きさで、付け替え前には311艘もの剣先船が営業していました。剣先船は、流域各地だけでなく亀の瀬まで荷を運び、地域の経済発展に大きな役割を果たしていました。ところが、付け替えによって、築留(つきどめ)堤防から上流へ船を上らせることができなくなり、剣先船は十三間(じゅうさんげん)川(がわ)から新大和川の河口へ入り、新大和川を遡ることになりました。
旧大和川に設けられた長瀬川や玉串川には、新たに井路川(いじがわ)剣先船(けんさきぶね)が運航することになりました。それまでと比べて船の役割は小さくなりましたが、旧河床に開かれた新田で綿栽培が盛んに行われ、その肥料を大坂から運び、製品を大坂へ運ぶために船が利用されました。綿を栽培するためには、干(ほし)鰯(か)や油粕(あぶらかす)などの肥料が必要で、その綿からつくられた綿糸や、河内(かわち)木綿(もめん)として流通した反物(たんもの)などを大坂へ運びました。それ以外にも、米や野菜も運んでいました。
各地でつくられた綿は、八尾や久宝寺などの綿(わた)問屋(どんや)が一手に売りさばいていましたが、綿の買値などをめぐって何度も訴えが出されています。旧大和川流域の村々にとって、綿は現金を得るための商品作物であり、綿問屋などが出現することによって売買のための経済機構が整ったのですが、それは必ずしも村々の利益を生み出すことにはならなかったようです。
綿は明治になると海外からの安価な輸入綿によって、次第に生産が減っていきました。しかし、その技術は浴衣や染色などの地場産業として、今も残されています。長瀬川や玉串川が、大阪の経済の発展にも貢献しているのです。 (安村)
市村新田と大和川分水築留掛かり(宝永5年・1708)〔寺田家文書〕