【コラム】世界かんがい施設遺産 長瀬川と玉串川 (3)「大和川分水築留掛かり」の誕生

2021年5月31日

 付け替えまでの大和川は、付け替え地点からさらに北北西へと流れ、二俣で北西へと流れる久宝寺川と北へ流れる玉櫛川に分かれていました。久宝寺川は、現在の長瀬川を中心に川幅200m前後の川でした。玉櫛川も、現在の玉串川を中心に150m前後の川幅があり、東大阪市の花園で菱江川と吉田川に分かれていました。旧大和川流域の村々は、これらの川の洪水に悩まされていたのですが、一方で、これらの川は田畑の用水源として欠かせない川でもありました。洪水をくり返す大和川を付け替えてほしいと願いながら、田畑の用水は残してもらわなければならなかったのです。
 宝永元年(1704)の付け替えによって、旧大和川の水は築留(つきどめ)で遮断されました。そのため、流域の村々は新しく用水路を築かせてほしい、その用水は新大和川から取水させてほしいと幕府に嘆願しました。幕府も田畑の水が枯渇して収穫がなくなれば年貢が減るなどの損害が出るため、用水路の必要性は十分わかっていました。しかし、新大和川の堤防にたくさんの取水(しゅすい)樋(ひ)ができると堤防の強度が弱くなってしまいます。そのため、ほんとうに必要な取水樋のみを認めたようです。
 旧大和川流域の村々は、旧大和川の中央に用水路を築くことにしました。築留には3基の取水樋が設けられ、そこから取水した水を旧大和川と同じように二俣で2本の用水路に分け、旧大和川流域の村々に配水することによって、田畑の用水としました。流域の村々は「築留(つきどめ)樋組(ひぐみ)」と称する用水組合をつくって、各村の配分を管理し、用水路の維持管理にもあたりました。流域の村数は75か村を基本としたため、「七拾五箇村用水組合」という名称もみえます。参加した村の中には、平野川を用水とする「青地(あおち)樋組(ひぐみ)」にも参加する村もあり、ため池などから用水を得ている村もありました。記録をみると68か村から81か村の村が参加していたようです。 (安村)

(3)付け替え前の大和川付け替え前の大和川

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