【コラム】大県誕生から1,300年(5)堅上郡の分離
それでは、なぜ堅上郡(評)と堅下郡(評)に分離されたのでしょうか?堅上郡は巨麻(こま)郷と賀美(かみ)郷の二郷しかありません。六郷しかないところから二郷だけ割いて一つの郡とする理由は何だったのでしょう。
現在の柏原市北東部も堅上地区と堅下地区に分けられています。堅上地区は青谷、峠、雁多尾畑、本堂から成りますが、青谷は古代には堅下郡鳥取郷だったと考えられます。おそらく本堂が巨麻郷、峠と雁多尾畑が賀美郷だったのでしょう。
一つの郷は五十戸で編成されます。戸は今の家一軒のことではなく、血縁関係にある一世帯で一戸でした。一戸に3~4世代が含まれるので、人数にすれば少なくても5人程度、多ければ30~40人になります。仮に一戸が20人として計算すると、一郷で千人となります。本堂周辺には今の数十倍の人が住み、堅上郡全体でも2倍くらいの人が住んでいたことになります。堅下郡の人数が今の十分の一程度と考えられることと比較すれば、いかに多くの人が山間部に住んでいたかがわかります。
堅上郡にかなり多くの人々が住んでいたとしても、普通は5~6郷で一郡となることや、堅上郡が山間部にあたり水田も少なかっただろうと考えると、郡として独立させる必要性が見当たりません。何か理由があるはずです。
それは、高安城(たかやすのき)の築城と関係があるのではないでしょうか。663年の白村江の戦いで、百済と倭(日本)の連合軍は、唐と新羅の連合軍に完敗します。これによって百済は滅亡し、日本にいつ唐や新羅が攻め込んできてもおかしくない状況になりました。唐・新羅の進行に備えて、日本では西日本各地に山城を築いて防衛体制を整えました。そして都のある大和を守る最後の防衛線が高安城だったのです。
『日本書紀』天智6年(667)に高安城を築いたとあります。山城は朝鮮半島に多数みられ、日本の山城も高句麗や百済の技術によって築かれたと考えられます。本堂には延喜式内社大狛(おおこま)神社があり、大狛氏の居住地であったと考えられています。「狛」あるいは巨麻(こま)郷の「巨麻」は「高麗(こま)」のことで、高句麗系の渡来系集団の居住地だったと考えられます。
高安城は高安山周辺に広がっていたと考えられますが、正確な範囲は明らかになっていません。しかし、その周辺に人々が居住できる土地は少なく、高安城築城やその維持管理にあたったのが堅上郡に居住する大狛氏などの渡来系氏族だったのではないでしょうか。そして、二郷でありながらも高安城の維持管理に供するためにここに一郡、すなわち堅上郡が置かれたのではないでしょうか。
(安村)
高安城の遺跡範囲と城壁推定線各説(『新版八尾市史』考古編2、2020年より)