【コラム】大県誕生から1,300年(4)堅評から大県郡へ
『日本書紀』に、大化2年(646)正月に詔(みことのり)が出されたことが記されています。詔とは天皇の命令のことで、大化の改新の方針を示した詔です。そのなかに、国ごとに郡を置くこと、郡に五十戸をまとめた里を置くことが規定されています。ここに記された「郡」や「里」は、『日本書紀』編さん時の書き換えであり、もとは「郡」ではなく「評」、「里」は「五十戸」だったことが、発掘調査で出土した木簡の内容などからわかっています。「郡」も「評」も読みは「コホ(オ)リ」、「里」も「五十戸」も読みは「サト」です。かつてはこのような制度が大化年間に実施されたことに疑問も持たれていましたが、最近では国-評-五十戸という地域機構が、大化の改新に伴って実際に施行されたと考える研究者が多くなっています。
大県郡について考えると、おそらくこのときに「堅評(かたのこおり)」として成立したのではないかと考えられます。それは、のちの大県郡の範囲だったのでしょう。それが、何らかの理由で上下の二つに分割され、それぞれ「堅上(かたかみ)評」「堅下(かたしも)評」となったのでしょう。
そののち大宝元年(701)に出された大宝律令によって、「評」は「郡」に改められることになりました。これによって、「堅上郡」「堅下郡」となり、養老4年(720)に合併して「大県郡」になったということです。
「サト」も大化2年に「五十戸」だったのが、7世紀末ごろに「里」となりました。大宝律令では、国-郡-里となったのです。ところが、霊亀元年(715)に「里」は「郷」に改められ、「郷」の下により小さい単位として「里」が置かれ、国-郡-郷-里という体制になりました。さらに天平12年(740)に「里」が廃止され、国-郡-郷という体制になり、これがその後長く続くことになりました。
『和名類聚抄』には、大県郡には大里、鳥坂、鳥取、津積、巨麻、賀美の六つの郷が置かれていたと書かれています。「郷」は「サト」と読みますが、一般には「ゴウ」と読まれています。このうちの大里、鳥坂、鳥取、津積の四郷が堅下郡、巨麻・賀美の二郷が堅上郡だったと考えられます。
(安村)
『和名類聚抄』に書かれた「大縣」(国立国会図書館ウエブサイトより)