【コラム】大県誕生から1,300年(3)なぜ大県なのか?

2020年10月27日

 「県」は「あがた」と読み、古墳時代に各地の豪族が治めていた領地のことを「県(あがた)」と言いました。領地を治める豪族を「県主(あがたぬし)」といい、近くでは「志紀県主」と呼ばれる豪族がいたことがわかっています。志紀は現在の藤井寺市とその周辺になり、「大県主(おおあがたぬし)」とも呼ばれていました。
 奈良時代には、地名はできるだけ良い文字を使うようにという指示が出されていました。そのため、堅いという物事の状態を表す「堅」という文字よりも、支配する土地を表す「県(あがた)」を使用したのでしょう。「大堅(おおがた)」に代わって、「おおがた」という読み方ができて、できるだけ良い文字を使った結果、「大県」となったのでしょう。
 同じような例は、柏原市南部の「安宿(あすかべ)郡」にもあります。「安宿」はもと「飛鳥部(あすかべ)」でした。奈良時代になって良い文字を使うようになった際に、できるだけ二文字にすることにもなりました。そこで「安宿(あんすく)」という文字を使い、これで「あすかべ」と読むことになりました。「安宿」には「住みやすいところ」という意味があり、これを採用したようです。
 「大県」は志紀大県主に関連する地名であるという説が以前からあります。たとえば、平凡社の『大阪府の地名』の大県郡の項目には、「『古事記』雄略天皇段に「志幾之大県主」のことがみえる。この大県主は志紀郡の地方にいたように思えるが、生駒山地の南部には信貴山があることからすると、大県郡をはじめ高安・志紀両郡などを含めた信貴山山麓の地域が、古く志幾(志貴)とよばれていた可能性は高く、『古事記』にみえる志幾の大県主の本拠の地が、大県郡の地方であったかもしれない。」と書かれています。
 しかし、その可能性は低いと考えられます。もともと大県(おおあがた)と呼ばれていたならば、「県下郡」「県上郡」で読みも「あがた」だったはずです。「県」を「堅」という文字に変え、読み方も「かた」に変更するというのは考え難いことです。また、大県郡と志紀県主を結び付けるような史料もありません。志紀県主の本拠地は「志紀県主神社」のある藤井寺市惣社付近と考えるのが妥当でしょう。奈良時代に採用された「大県」を古墳時代まで遡る地名とする根拠はなく、良い文字として「県」を使用したに過ぎないと考えるべきでしょう。
 このように、「大県郡」の誕生だけでなく、「大県」という地名の誕生も720年だったと考えられます。そして読み方も、奈良時代から現在まで一貫して「おおがた」だったのです。

(安村)

大県 コラム 写真堅上郡と堅下郡

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