【コラム】大県誕生から1,300年(2)大県郡の誕生
柏原市には、読み方の難しい地名がたくさんあります。たとえば、雁多尾畑(かりんどおばた)、東条(ひがんじょう)など。大県(おおがた)もその一つで、普通ならば「だいけん」でしょうか。なかなか「おおがた」とは読めません。地元の方は、「おがた」と呼ばれる方もあります。物知りな方は「県」を「あがた」と読むことから、「おおあがた」と読みますが、これは間違いです。
1回目のコラムで、『続日本紀』に「オホガタ」というふりがながふられていると書きました。このふりがなは、おそらく平安時代ごろにふられたものと考えられますが、その時代を確定できません。しかし、平安時代の承平年間(931~937)に完成した『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』(和名抄)という日本最初の百科事典に登場します。そこには全国の郡の名称とその読み方が書かれていて、河内国の「大縣」の読みは「於保加多」と書かれています。つまり「オホカタ」が正式な読み方であることになります。「ホ」は「オ」とも発音するので「おおかた」が正式な読みで、一般には「おおがた」と読まれていたのでしょう。
大県郡の誕生から200年ほどのちの百科事典に書かれているのですから、大県は最初から「おおがた」と読んでいたと考えてまちがいないでしょう。その読み方が、1,300年間続いてきたということになります。
では、なぜ堅下郡と堅上郡を合併して「大県郡」となったのでしょうか。『続日本紀』では、堅下、堅上のふりがなを「かたのしも」「かたのかみ」と書いています。そうすると、もとは「堅」だったのが、二つに分かれて堅下、堅上になったと考えるべきでしょう。それならば、二郡が合併すれば「堅郡(かたぐん)」もしくは「大堅郡(おおかたぐん)」となったはずです。なぜ「県(縣)」という文字を使うことになったのでしょうか?その理由については、次回のコラムで紹介することにしましょう。
(安村)
『和名類聚抄』に書かれた「大縣」(国立国会図書館ウエブサイトより)