【コラム】大和川のつけかえ(9)大和川付け替えへ
付け替え不要を強調していた河村瑞賢は、元禄12年(1699)に工事を終え、江戸に帰って間もなく亡くなりました。このころ万年長十郎が大坂の堤奉行に着任しています。大和川の治水責任者となった万年は、経済感覚にすぐれた人物だったようです。そして、元禄13・14年(1700・1701)に大洪水が河内を襲いました。
これらいくつかの出来事が重なって、風向きが変わったようです。元禄15年ごろに洪水被害の検分に来た幕府の役人が、付け替えを検討していることを漏らしたようです。あきらめていた付け替えが実現するかもしれないと、流域の人たちは喜びました。地元の代表として中甚兵衛らが呼び出され、一挙に付け替えへと進んだようです。
幕府が付け替えへと方針転換した最大の原因は、経済的な問題と考えてまちがいないでしょう。付け替え工事が幕府に利益をもたらす方法で実施されることになりました。付け替え後の旧川筋に開かれる新田の開発権利で3万7千両の収入が見込めるので、工事では3万7千両まで幕府が負担し、不足のほぼ同額は大名に費用負担をさせることで対応する。そうすれば、幕府の工事費負担は不要となる。さらに新川によって潰れる土地の4倍の面積の新田からは、年貢があがってくる。幕府が利益を得ることができると算盤勘定をしたのでしょう。新田開発などに積極的に取り組み、経済感覚にすぐれていた万年長十郎だからこそ考え出すことができたのでしょう。
これを受けて元禄16年(1703)4月に幕府の役人による付け替え検分がはじまり、新川筋の村々はあわてました。付け替えはもうないと信じていました。反対運動も20年ぶりのことです。このときは、幕府はすでに付け替えを決めていたようで、反対の嘆願書を受け取ってもらえないような事態が続きました。翌年1月に代表を江戸へも派遣しましたが、すでに幕府は付け替え工事を担当する役人を派遣し、代表らが江戸にいるあいだに、各村には工事に対する具体的な指示が出されていました。
ほぼ5年ごとに行われていた検分が20年も実施されていなかったのに、久しぶりの検分が、それまで中止を繰り返していた付け替え工事実施という結果をもたらしたのです。
(安村)
「川違新川図」(中家文書)