【コラム】大和川のつけかえ(10)大和川付け替えと中甚兵衛

2022年2月25日

 ここまでお読みいただいた方のなかに、付け替え運動の中心人物である中甚兵衛がほとんど登場しないのはどういうことだと思われた方があるかもしれません。ここで、もう一度付け替え運動を振り返ってみたいと思います。
 城蓮寺村の「新大和川堀割由来書上帳」には、芝村の三郎左(右が正しいようである)衛門と吉田村の治郎兵衛が付け替え運動の中心人物だったと書かれています。そして、天和3年(1683)の舟橋村の松永家文書には、その二人が幕府の検分に際して新川の牓示杭を打ったと書かれています。太田村の柏原家文書には、天和3年の検分に三郎右衛門が同行したとも書かれています。また、その際に付け替え反対派が大挙して訴え出た一方、治郎兵衛が付け替え推進派を大勢動員して大坂は混乱に陥ったともあります。
 これらの史料に登場する人物は、三郎右衛門と治郎兵衛に限られていることから、付け替え運動を中心になって進めていた人物は、一貫してこの二人だったと考えてまちがいないでしょう。天和3年ごろには中甚兵衛も今米村の庄屋になっていたと考えられますが、甚兵衛の名はどこにも見えません。甚兵衛は運動の中心人物ではなかったのです。
 その後、貞享4年(1687)に付け替えの嘆願書が出されていますが、この嘆願書を中心になって作成したのは中甚兵衛と考えられます。中家には貞享4年以降の文書しか残っておらず、甚兵衛が運動の中心となったのは、これ以降と考えてまちがいありません。それでは、どうして甚兵衛が中心となったのでしょうか。
 三郎右衛門は、天和3年の検分で同行までしながら、付け替え不要という結果でした。治郎兵衛は、一騒動を起こしていました。二人は周辺村々から冷たい目で見られ、その結果、運動から手を引くことになったのでしょう。その二人の思いを受け継いだのが甚兵衛だと思われます。甚兵衛は二人と年齢も近く、近くの村なのでおそらく顔見知りだったと思われますが、甚兵衛と二人の交流を示す史料はありません。
 甚兵衛が50年も付け替え運動を進めていたと書かれた書物も多いのですが、その中心人物は三郎右衛門と治郎兵衛で、甚兵衛は付け替え前の終息する運動の中心人物として、17年間ほど関わったというのが実態でしょう。
 なお、2019年のコラム「大和川つけかえと中甚兵衛」も参照してください。

(安村)

コラム写真

「中甚兵衛肖像画」(中家文書)

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