【コラム】大和川のつけかえ(8)貞享4年以降の運動

2022年2月25日

 天和3年(1683)の5回目の付け替え検分の結果、河村瑞賢の意見を取り入れて淀川河口を中心とした工事を実施することになりました。工事は貞享元年(1684)から4年(1687)と、元禄11年(1698)から12年(1699)の二期に渡って実施されました。この工事によって、淀川河口の排水はよくなったようですが、大和川流域にはあまり変化はありませんでした。
 瑞賢の第一期工事終了近くの貞享4年1月ごろに、大和川付け替えの嘆願書が出されています。その嘆願書の控えが中家文書に残されており、これが現存する唯一の付け替え嘆願書になります。それまでの検分の際にも、付け替えを求める嘆願書が出されていたと考えられますが、現存していません。
 その嘆願書「乍恐御訴訟」では、従来の新川ルートへの付け替えを求め、実現したならば15万石余りの百姓が大いに助かると書かれています。15万石とすると、河内郡、若江郡、讃良郡、茨田郡、高安郡と志紀郡、丹北郡、摂津国東成郡の一部を含んでいると考えられます。大和川流域全体の村々からの嘆願となります。
 しかし、幕府の回答は厳しいものだったようです。その年の3月には、付け替えをあきらめて治水工事の嘆願に変わっています。参加する村々も7万石と半減しています。それは当然でしょう。幕府は天和3年の検分の結果、付け替えは不要と考え、大金を注いで瑞賢に工事を実施させている最中だったのですから。
 その後、たびたび嘆願書が出されていますが、すべて治水工事の嘆願であり、付け替えはすっかりあきらめていたようです。そして、元禄2年(1689)の嘆願書では3万石余り、河内郡、若江郡、讃良郡、茨田郡の4郡からの嘆願となっています。その後も運動規模は小さくなり、運動がほぼ終息したころに幕府は急に付け替えを検討し始めました。
 この間、付け替えに反対する人たちの動きはなかったようです。幕府が付け替え不要として、付け替えを求める運動が終息に向かうなか、それは当然のことです。二度と付け替えの話は出ないだろうと、新川筋の人たちは安心していたようです。

(安村)

コラム写真

付け替え嘆願書「乍恐御訴訟」(中家文書)

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