【コラム】大和川のつけかえ(6)天和3年の付け替え反対訴状

2022年2月25日

 天和3年(1683)の付け替え検分に際して、4月23日付けの「乍恐御訴訟申上候」が志紀郡太田村(現八尾市)の柏原家文書に残されています。それは、4月21日に新川の牓示が示されたことに対して迷惑を訴える訴状です。このときに示された新川のルートは、志紀郡舟橋村から摂津国住吉郡田辺村、そこから二手に分かれて安立町へのルートと、東成郡阿部野村へのルートでした。このとき以外は、いつも現在の大和川に近いルートで検討されていたのですが、このルートならば、かなり北へ寄ったルートになります。当然ながら、ルートが変われば反対する村々も変わります。この嘆願書では、竹渕村、南田辺村、安(阿)部野村など27か村が反対しています。
 これまでは、この嘆願書の存在から、天和3年に検討された付け替えルートは、このようにかなり北へ寄ったルートだったと考えられえていました。ところが、志紀郡舟橋村の松永家文書に、これとは異なる天和3年の嘆願書があることを確認しました。
 その文書は、天和3年4月18日付けの「川違迷惑之御訴訟」で、訴えた村々は、従来からの付け替え予定地に沿った庭井村、杉本村、山ノ内村などを含む36か村でした。芝村の三郎左衛門と吉田村の次郎兵衛が示した牓示に対する迷惑の訴状です。つまり、4月18日の時点で示されていた新川筋は、従来どおりのルートだったということです。
 この訴状には、石川と合流してすぐに大和川の流れを変えると、堤防への水当たりが強くなるので堤防が破損しやすくなるなどと訴えています。もしかすると、その訴えに納得した役人らが、堤防への水当たりを緩めるために、もう少し北へ流れるルートに変更できないかと考えた結果が21日に示されたルートだったのではないでしょうか。
 そのように考えて問題ないならば、天和3年も基本的には従来からの付け替えルートで検討していたが、そのルートに対する第二案として北寄りのルートを検討したのではないかと考えられます。あくまでも付け替えの基本ルートは現在の大和川のルートだったということです。このように考えれば、4月18日の訴状、21日の新たな牓示、23日の訴状が出された経緯がうまく理解できます。

(安村)

コラム写真

「川違迷惑之御訴訟」(松永白州記念館蔵)

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