【コラム】大和川のつけかえ(1)求める人と反対する人

2022年2月25日

 柏原市立歴史資料館では、毎年秋季企画展として、大和川の付け替えをテーマにした展示を実施しています。これは、大阪府内の小学4年生の学習内容に合わせた展示で、毎年多数の小学生が見学に訪れています。今年度(令和2年度)は、新型コロナウイルスの影響で来館校が少なくなると思いますが、展示は例年どおりに実施したいと思います。
 「大和川の付け替え」という大きなテーマのもとで、毎年小テーマを決めています。令和2年度は、付け替えを求める人たちと付け替えに反対する人たちの動きを中心に、「求める人と反対する人」というテーマで付け替えに至るまでの過程を考えてみます。
 現在の大和川は、柏原市から西へと流れて大阪湾に注いでいますが、それは宝永元年(1704)に付け替えられた姿で、それまでは柏原市から北あるいは北西に流れ、大阪城の北で旧淀川(大川)に合流していました。
 しかし、高低差の小さい大阪平野を流れる川は、なんども洪水を起こしていました。とりわけ、江戸時代(17世紀)になると洪水が激しくなり、流域の村々から大和川の流れを付け替えてほしいという嘆願が出されるようになりました。
 村々から付け替えを求める嘆願書が提出されると、幕府は付け替えが必要かどうか検討し、現地に入って検分(見分)をすることもありました。付け替え予定ルートに杭を打ち、測量などを行って検討するのです。これに対して、付け替えに反対する村々からも嘆願書が提出されます。計画ルート周辺の村々では、新川ができると不都合なことがさまざま生じてきます。それで、村々から付け替え反対の嘆願書が提出されるのです。
 このようなことが繰り返されたうえで、宝永元年に付け替えられることになったのです。確認できるだけで6回の検分があり、6回目の検分で付け替えが決定されました。それまでの5回の検分では、いずれも「付け替えの必要なし」という結論だったのです。
 それでは、幕府の検分とその前後のようすを中心に、付け替えを求める人たちの動きと、それに反対する人たちの動きを追っていきたいと思います。

(安村)

 

コラム写真

つけかえ前の大和川

【コラム】大和川のつけかえ
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