柏原の古文書-柏元家文書と柏原・庭井新田-

2020年7月22日

 7月19日(日)より歴史資料館の常設展示室近世コーナーで公開している柏元家文書は、1995年に調査がはじまり、2002年に2回にわたって寄託された文書群です。これまで3冊調査報告書が刊行され、2020年7月31日に4冊目の調査報告書が刊行されることになりました。
 柏元家のある河内国志紀郡柏原村の集落は、寛政9年(1789)に、東方と西方に分けられて以降、庄屋は東方と西方に一人ずつ置かれることになりました。柏元家はこのとき、柏原村西方に所属し、柏原村西方の年寄と庄屋を勤めたことが古文書の調査でわかっています。
 柏元家に残された古文書の中には、寛政九年に村の中が2つに分けられたあと、柏原村の内で行われる普請や起った水害などの事件の際、かかる費用や供出しなければならない人足(労働者)などをどうするのか。東方と西方の庄屋・年寄が立会い、話し合って、決めたやくそくごとについてまとめられた記録が残っており、当時の柏原村がどのように経営されていったのか、よくわかる貴重な資料が見つかっています。
 また、柏元家は柏原村の運営だけではなく、摂津国住吉郡庭井新田(現在の堺市北区)の経営に関わっていたことも古文書を調査し、見えて来ました。
 庭井新田とは、宝永元年(1704)の大和川付け替えをきっかけに、干潟化していた依羅池(よさみいけ)を埋め立ててつくられた新田です。
 柏元家には、宝永5年(1708)の「検地帳」と最も古くて宝永6年の「年貢皆済目録」が残されていることから、開発当初より庭井新田の経営に関係していたものと考えられます。この関わりは戦前まで持たれたことが、大和川から用水を取水するために設置したポンプに関する経理簿よりわかりました。
 庭井新田については史料が少なく、自治体史の中でも周辺で同じように開発された他の新田に比べ、わかっていることはほとんどありませんでした。
 しかし、近世に描かれた庭井新田の絵図や「目録帳」が柏元家で発見されたことにより、庭井新田に拓かれた田では木綿や稲作が、畑の方では木綿や大豆作が中心となり、農閑期には、男性は藁で、女性は綿で稼いでいたことが新しくわかるようになりました。
 このほかにも、もともとは池底であったため、林や山、古城や寺社もなければ、紺屋といったような商家もなく、侍や山伏の居住もなかったことなどが記録されており、完全に農業地であった庭井新田の当時の様子をよりあざやかに復元することが出来るようになりました。
 今回の展示は、これまでの柏元家文書調査で見えて来た柏原村や庭井新田に関する調査報告を兼ね、柏元家に伝わる柏原村や庭井新田に関する古文書や絵図などを多数展示しております。公開は9月6日までとなっております。これを機会に柏元家文書を通して近世・近代の柏原村や庭井新田の世界により親しんでもらえますとうれしく思います。
(文責 青井恵理香)

庭井新田絵図
摂州住吉郡庭井新田絵図【嘉永4年(1851)】

展示風景
展示風景

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