【コラム】龍田古道(4)竹原井離宮と河内国分寺
平城宮と難波宮の中間地点にあった竹原井離宮は、『続日本紀』に頓宮、離宮、行宮と記されています。『続日本紀』では頓宮・行宮と離宮・宮は明確に区別されています。頓宮・行宮は皇族の臨時的な宿泊施設、すなわち仮宮です。それに対して、離宮・宮は常設の施設であり、多くは瓦葺建物を伴っていました。
竹原井離宮に関わる最初の史料は、養老元年(717)の元正天皇が和泉宮から平城宮への帰路に竹原井頓宮に1泊した記事です。このときは、あくまでも臨時の施設だったのです。次が天平6年(734)3月です。聖武天皇が難波宮に行幸し、その帰途に竹原井頓宮で2泊しています。この際に、河内国の安宿、大県、志紀3郡の田租(租税)が免除されています。『続日本紀』の行幸に伴う田租免除記事は、いずれも行宮などの施設の造営に関連したものです。しかも免除が3郡に及ぶ規模であることを考えると、竹原井頓宮で大規模な造営があり、3郡の人々がその造営に協力したと考えられるのです。
柏原市青谷の青谷遺跡で竹原井離宮と考えられる遺跡が発見されています。瓦葺きの建物を回廊状に建物が囲み、各建物を石敷きの渡り廊下でつないでいます。そこで使用されている青谷式軒瓦の年代は、730年代ごろと考えられます。この調査成果と先の史料から、青谷遺跡で発見された瓦葺建物が天平6年の行幸、田租免除に対応すると考えられます。難波宮造営に伴い常設の離宮として整備されたのが、青谷遺跡で発見された遺構でしょう。そして、これ以降竹原井頓宮は竹原井離宮と呼ばれるようになったのです。
宝亀2年(771)に光仁天皇が竹原井行宮へ行幸しています。離宮ではなく行宮と表記されていることを考えると、このころには竹原井離宮は宿泊できない状態になっており、臨時的に宿泊できるように整備したのではないかと考えられます。
河内国分寺は、青谷遺跡の対岸にあります。創建瓦は青谷式軒瓦で、青谷遺跡(竹原井離宮)よりも若干遅れると考えられます。天平6年(734)ごろに竹原井離宮が造営され、続いて河内国分寺が建立されたのです。河内国分寺は、わずかな平坦地に建立されていて、国分寺の立地としては決して好ましいものではありません。おそらく、竹原井離宮の対岸に位置することと、山と川を好む聖武天皇の指示によって、この地が国分寺建立の地に選ばれたのでしょう。大和川をはさんで竹原井離宮と国分寺が存在し、その西に芝山がそびえる景観は、人々に驚きを与えたことでしょう。
(文責:安村俊史)
青谷遺跡(竹原井離宮跡)の遺構