【コラム】龍田古道(10)信仰と龍田古道
『万葉集』に「恐(かしこ)の坂」、『日本書紀』に「懼坂(かしこのさか)」とあるのは、龍田道の峠付近のことではないかとされています。峠は亀の瀬のすぐ東にあたり、地すべりの恐怖を感じる地でした。そのために「恐坂」などと呼ばれていたと考えられるのです。そこは大和と河内の国境でもあり、ここを越えるとき、人々は神に祈りを捧げたのでしょう。それが現在の峠八幡神社の信仰に受け継がれていると考えることもできます。
亀の瀬には竜王社という小さい祠があります。ここは、江戸時代に大和川を運行した剣先船の終点の地でもあり、寛政3年(1791)に剣先船の船人中が奉納した石灯籠が残っています。船人も、この地で運航の安全を祈願したのです。
また、役小角(役行者)が金剛・葛城の峰々に設けたとされる28箇所の経塚をめぐって修行する葛城二十八品の最終地が亀の瀬とされています。現在でも修行する人があり、王寺町の明神山を最終地とする場合もあり、竜王社を最終地とする場合もあるようです。かつては亀岩の横に宝筐印塔が建っていたということです。
このように亀の瀬、峠の地がさまざまな時代の信仰と関わってきたことは、偶然とは考えられません。この地が大和と河内の国境であり、亀の瀬が地すべりを起こす地であったこと、大和川の川幅が狭く渓谷となっていること、などが要因と考えられます。
大和と河内を結ぶ大和川は、風の通り道ともなっています。冬の季節風や台風のときには、今も強い風が吹きます。先に考えた国境の祀り、地すべりなどの安全祈願の祀り、大和川の洪水への祀り、これらが風の祀りと結びついて龍田の神を祀るようになったのではないでしょうか。
『日本書紀』によると、天武4年(675)に天皇が勅使を派遣して龍田の立野に風神を、廣瀬に大忌神を祀ったのが初見です。それ以来、天武朝に19回、持統朝に16回も風神の祀りを行っています。国家祭祀が行われていたのです。『延喜式』に「四時祭」として4月4日と7月4日に「龍田風神祭」を行っていたことが記されています。明治以降に風神祭が「例大祭」と「風鎮大祭」に分かれ、現在は4月4日に「例大祭」、7月の第一日曜日に「風鎮大祭」が行われ、付属する神事として「瀧祭」や「放魚祭」、「山神祭」などが行われています。人々のあいだに、今も信仰は受け継がれているのです。
(文責:安村俊史)
龍田大社-今も風の神として信仰を集める。