【コラム】龍田古道(15)龍田古道の歴史といま
大和川は、人々や物資の往来に古くから利用されていたと考えられますが、亀の瀬を船で通行するのは困難でした。川に沿った道も古くからありましたが、岩盤が川岸に迫っているため十分な道幅を確保することも困難だったと思われます。しかし、川沿いの道は起伏が少なく、往来には便利でした。この道は、龍田道あるいは龍田越と呼ばれました。
推古21年(613)に難波から飛鳥への大道が置かれたのもこの地でした。大和川沿いに渋河道、龍田道、太子道(筋違道)をたどるルートだったと考えられます。龍田道も道幅を広げ、できるだけ直線道としたのでしょう。天武8年(679)には関も置かれました。この関にどのような機能があったのかわかりませんが、龍田道が重視されていたことはまちがいありません。奈良時代には平城宮から難波宮への行幸路として、たびたび利用されました。竹原井離宮を設け、河内大橋を架橋して駅路も整備されたようです。平安時代以降は行幸路として利用されることもなくなりましたが、明治に現在の国道25号の前身道路が大和川左岸に設けられるまで、亀瀬越奈良街道として利用されました。また、江戸時代には舟運も盛んに利用され、明治には鉄道が敷設されることになりました。
しかし、龍田道には亀の瀬の地すべり地帯があり、龍田道を利用する人々に恐怖を与えてきました。峠を越えるときに旅の安全を神に祈り、それはやがて風の神としての龍田大社の信仰へと発展しました。天武・持統朝には龍田大社で国家祭祀が繰り返され、現在の風鎮祭などに継続されています。
亀の瀬は近代に入ってから3回の地すべりを生じています。とりわけ昭和6年の地すべりは規模が大きく、現在でも地すべり対策工事が続けられています。地すべりが発生すると大和川の河道が閉塞され、奈良盆地が湖へと変貌します。やがて閉塞する土砂が決壊すると、その水が大阪平野に押し寄せ、今度は大阪平野が水没してしまいます。そのため地すべり対策工事が継続されているのです。
古代の人々にとって、龍田道の背後に控える龍田山は、大和と外界とを隔てる山と意識されていました。それゆえ龍田山が大和のシンボルとなり、『万葉集』に望郷の歌が多く残されています。また、美しい景観は、龍田古道を往来する万葉びとにやすらぎを与えていたようです。「あの山を越えれば」と思いつつ、自然への敬意や歴史への憧憬を抱きながら、みなさんもぜひ歩いていただきたいと思います。
(文責:安村俊史)
工事中に発見された明治25年のレンガ積み亀瀬トンネル