【コラム】龍田古道(12)江戸時代の舟運と龍田古道
江戸時代には舟運が盛んとなり、亀の瀬より下流を剣先船、上流を魚梁船が運行していました。亀の瀬は奇岩が多数露出し、滝もあったために船が遡ることはできませんでした。そのため亀の瀬で荷継ぎが行われ、その間は人力で荷物を運んでいました。剣先船は大坂から旧大和川を亀の瀬まで運航していましたが、宝永元年(1704)の大和川付け替え以降は新大和川を河口から遡って運行していました。魚梁船は三郷町立野にあった魚梁浜から佐保川や寺川など大和川支流でも営業していました。
剣先船は剣のように舳先の尖った川船で、長さ11間3尺(17.6m)、幅1間1尺2寸(1.9m、いずれも5尺1間)、16駄(2,160kg)積みの船でした。大和川付け替え前は大坂京橋から久宝寺川を遡り大和川は亀の瀬まで、石川は喜志まで運行していました。亀の瀬には右岸の魚梁荷場、峠問屋、左岸の藤井問屋まで荷が運ばれました。付け替え後は大坂から十三間川を通って新大和川の河口に入り、同様に亀の瀬まで運行していました。
右岸の荷はここで陸揚げされ、峠を越えて大和の立野村まで運ばれ、魚梁浜から魚梁船に積み替えられて大和各地へ運ばれました。一方左岸の藤井問屋で揚げられた荷は、陸路で大和南部各地に運ばれました。
魚梁船は長さ8間半(14.7m)、幅5尺(1.5m)と剣先船よりもひとまわり小さいものでした。魚梁浜の近くには魚梁帳場、魚梁舟役所などと呼ばれる問屋があり、ここから大和各地に荷が運ばれました。大和川(初瀬川)は天神(天理市)、寺川は今里(田原本町)、飛鳥川は松本(田原本町)、佐保川は筒井(大和郡山市)まで運ばれました。
剣先船も魚梁船も、上りは干鰯・油粕などの綿作に必要な肥料、下りは米や商品作物などが中心で、荷以外は運べませんでした。剣先船の終着点である魚梁荷場には、石積みで船着場がつくられていました。そのすぐ近くに竜王社があり、剣先船仲間が運行の安全を願って祀っていたようです。剣先船の船人中が奉納した石灯籠が今も残っています。竜王社は浜神とも呼ばれていました。
(文責:安村俊史)
剣先船-『和漢舩用集』より