【コラム】龍田古道(6)聖武天皇の行幸
神亀2年(725)10月に、聖武天皇は難波宮に行幸しました。この際に龍田道を利用し、竹原井頓宮を利用したと考えられますが、記録には残っていません。
翌神亀3年(726)10月に、播磨国印南野へ行幸した聖武天皇は、その帰路に難波宮へ立ち寄りました。そこで藤原宇合を知造難波宮司に任命し、難波に新しい宮殿を造営することにしたのです。この帰りも龍田道を利用したと考えられますが、記録にはみえません。
天平6年(734)3月にも難波に行幸しています。天平4年(732)に難波宮が完成してか
ら初めての行幸です。おそらく、宮の出来栄えを自らの目で確かめたかったのでしょう。
この行幸の帰途に立ち寄った竹原井離宮も無事に完成していたようです。
次に聖武天皇が難波宮に行幸したのは、天平12年(740)2月でした。この行幸の際に智識寺に立ち寄り、蘆舎那仏を礼拝しています。それが、紫香楽宮、そして東大寺の大仏造立へとつながっていきます。智識寺を礼拝していることから、行幸路はすでに山越えの龍田道に変更されていたと考えられます。聖武は智識寺礼拝によって、知識の強大な力を知ったことでしょう。後の大仏造立の際に、みんなの手で大仏を造ろうと呼びかけ、知識を代表する行基にその任を任せています。
天平17年(745)8月にも平城宮から難波宮へ行幸しています。このとき、聖武天皇は体調を崩して急遽平城宮に帰ることになりました。その際に宿泊した宮池駅とは、平群駅のことではないかと考えられます。
天平勝宝8歳(756)の難波宮行幸の際には、聖武は太上天皇となっていました。『万葉集』には、このときに聖武太上天皇と光明大后が河内離宮に宿泊したとあります。河内離宮とは、竹原井離宮のことでしょう。孝謙天皇は智識寺南行宮に宿泊していました。この行幸から平城宮へ帰って間もなく聖武天皇は亡くなっています。
以上のように、龍田古道の整備、ルート変更を実施したのは、聖武天皇だったと考えられます。それは、難波宮の造営に関連する一連の事業だったのです。ところが、その後の恭仁宮遷都などの混乱で龍田古道を利用することは少なくなり、その後は聖武の体調不良などもあって、整備された龍田古道を利用する機会は限られていたのです。
(文責:安村俊史)
智識寺東塔心礎(石神社境内)