【コラム】龍田古道(1)龍田古道とは?
奈良盆地の水を集めた大和川は、生駒山地と金剛山地のあいだを抜け、大阪平野へと流れ出します。この大和川に沿った山越えの道を「龍田道」あるいは「龍田越」といい、古代から大阪(河内)と奈良(大和)を結ぶ道でした。龍田道は、時代や目的によって数本のルートに分かれており、ここではそれらを総称して「龍田古道」と呼ぶことにします。
なお、「龍」と「竜」は同じ意味で、古代からどちらも使われています。柏原市では、これまで主に「竜」を使用してきましたが、共同で事業に取り組むようになった三郷町が「龍」を使用していることから、これからは基本的に「龍」を使用することにしました。
大阪と奈良との府県境付近で、大和川の川幅がもっとも狭くなっているところを「亀の瀬」と呼びます。亀の瀬は、地すべりの多発する危険なところです。しかし、地すべりによって大和川に奇岩が露出するところとなり、そこから生み出された美しい景観が、『万葉集』に多くの歌を残すことにもなっています。また、亀の瀬の北側の山々を総称して「龍田山」と呼んでいました。龍田山は、都人に大和と外の世界を区切る山と強く意識されていたようです。『万葉集』には、龍田山を故郷大和のシンボルとして詠んだ望郷の歌もあります。「あの山を越えれば、妻の待つ我が家に帰れるのだ」「あの山を越えれば、あなたは私のことなんか忘れてしまうのでしょうね」。万葉びとは、自分の気持ちを龍田山に寄せて歌いました。
地すべりという危険を伴いながらも、龍田古道は古代において重要な道として位置づけられてきました。それは、河内と大和の国境を越える峠越えの道の中で、最も高低差が小さく、輿や馬で越えることができる道だったからです。ほかの道では、傾斜がきついため、輿を使用することはできなかったでしょう。
人々は、道中の安全を神々に祈りながら峠を越えていきました。その龍田古道の歴史を振り返りながら、「あの山を越えれば」という古代の人々の思いに迫ってみたいと思います。
(文責:安村俊史)
龍田古道から見る夕陽(澤 戢三氏撮影)