柏原と明治維新7
神仏分離令
日本では奈良時代から神仏習合として、神道と仏教は混然としていました。仏像を祀っている神社や、神社境内に神宮寺があるところもたくさんありました。神と仏を分けることを神仏分離といい、江戸時代にも儒教の合理主義に基づいて、いくつかの藩で神社と寺を分ける試みがなされていましたが、明治維新によって、本格的に神仏分離が推し進められることになりました。
それまでの仏教を国教とする政策を否定し、新政府は「神道国教化政策」のもと、慶応4年(明治元年・1868)3月に神仏習合を禁止し、神社と寺を分離しました。慶応4年(1868)3月17日の「神祇事務局ヨリ諸社ヘ達」にはじまり、神社から仏教色を排除することを命じた明治初年の一連の措置を「神仏分離令」といいます。
全国の神社に「別当」「社僧」と呼ばれる僧侶がいましたが、新政府は彼らに還俗を命じ、神主や社人として神道を奉じるように命じました。また、1.神の名に仏教的用語を使用している神社を調べ上げ、2.仏像を神体としている神社の仏像を廃棄し、3.神社に所蔵する仏教的な什物の排除などを命じました。この命令は、着実に実行されるところが多かったようです。
これらの命令が、仏教は不浄であるという過激な考えを生み出し、寺や仏像を破壊するなどの廃仏毀釈が全国に広がりました。政府は寺院や仏教を否定するものではないという触れを出しましたが、多くの人たちに仏教を否定する考えが浸透したようで、このときに全国の3分の2の寺が破却されています。柏原でも多くの寺が破却されました。その際に、寺院が所蔵する貴重な仏像や宝物が多数散逸してしまいました。
柏原村では神社と寺は明確に分離されており、問題はないとする調査への回答が残されています。
(文責:安村俊史)
写真:神仏分離令に関する史料(柏元家文書)