柏原と明治維新6
2018年7月15日
最後の一揆
幕末の混乱は、国分村にも少なからぬ影響を与えました。慶応2年(1866)、河内で最後の一揆といわれる騒動が起こりました。米価の高騰に困った国分村の人たちが、米屋を襲ったのです。
5月16日夜、大和川の堤で早太鼓を叩いて30~40人の村人が集まって来ました。村人は5軒の米屋を次々と襲って乱暴をはたらき、その間に酒造業を営んでいた米屋順之助宅(北西尾家)から酒樽も持ちだしていました。その後、西光寺・西法寺の釣鐘をならして村人を集め、家へ帰るように説得する村役人に応じませんでした。
翌17日は明方から西光寺へ村人が集まり、村役人に反別5斗ずつの米を与えること、10月まで1人1日4合の米を半値で売ること、6升の年貢を4升にすること、これを承知できないならば、竹槍で村役人の家を壊すと訴えました。そのため、村役人も承知せざるを得ず、村人を家に帰しました。
これを聞いた代官らは厳しく取り締まることにし、22日に番人ら約200人で村人10人ほどを召し捕えました。これに激高した村人は、竹槍をもって番人らを追いかけまわし、捕えた者を解放させました。
しかし、23日夜に郡山藩などに応援を求めて1000人以上によって騒動は鎮圧されました。130人ほどを召し捕り、うち9人は引き立てられて行ったということです。
堅山家文書の「多羅尾様御支配 当村一起乱妨一件荒増控」に、騒動の一連の経過が記されています。日付は慶應弐年丙寅五月拾六日夜とあり、堅山家の記録であることがわかります。伝聞も含まれているため、不正確な部分もあると思われますが、幕末の混乱を語る貴重な史料です。
(文責:安村俊史)
写真:「当村一起乱妨荒増控」(堅山家文書)
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