柏原と明治維新5

2018年7月10日

教育

 江戸時代に子供たちが「寺子屋」で、よみ・かき・そろばんなどを学んだことはよく知られています。柏原市域では、明治元年(1868)の時点で、柏原村に3か所、平野村に1か所、雁多尾畑村に1か所、国分村に2か所、玉手村に1か所、合計8か所に寺子屋がありました。明治5年(1872)には、柏原村と平野村に郷学校が置かれ、翌年には柏原村、平野村以外に国分村、雁多尾畑村、玉手村にも小学校が置かれました。そのころの就学率は40%程度と考えられています。ここでは、国分村の小学校の母体となった立教館について見ておきたいと思います。

 頼山陽の優秀な弟子であった柘植常熙(卓馬・葛城)は、医師としての家業を継ぐために国分村にもどりました。そして、村の有力者の支援を受けて、文政13年(1830)に私塾を開設し、これを立教館と名づけました。立教館では、儒学教育を中心に、漢詩や漢文の教育も行われました。「立教館記」には、教育方針が記されています。塾生は、国分村だけでなく周辺の村々からも集まり、元治元年(1864)には移転して新学舎が建設されました。明治になると、学校へ転換するように嘆願が繰り返され、明治4年(1871)に国分村小学校立教館となり、明治6年には二十五番小学校となっています。これが、現在の柏原市立国分小学校の始まりです。

 立教館が文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけて増改築された際の史料が残されています。「立教館新造記録」「日雇附込帳」「諸色買物帳」には、増改築に伴う大工の人数や手伝いの人々、消耗品の購入などが記録されており、どのように工事が進められたかがわかります。このときに建てられた立教館の学舎は、今も関西福祉科学大学の構内に残されています。

(文責:安村俊史)

立教館
写真a:立教館

立教館諸記録
写真b:立教館諸記録(北西尾家文書)

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