柏原と明治維新3

2018年6月25日

天誅組と新選組

 幕末から明治への混乱の時代、尊王攘夷を叫び幕府を倒そうとする人、幕府を守ろうとする人などさまざまな考えを持った人々が、自らの意見を主張し争っていました。ここでは、その幕末に組織された二つの集団、天誅組と新選組を取り上げてみたいと思います。それぞれの隊に、柏原から参加していた人物がいたのです。

 江戸時代の河内国大県郡法善寺村は、18世紀中ごろに北法善寺村と南法善寺村に分けられ、それ以降明治まで、北の庄屋を田中家が、南の庄屋を大谷家が勤めています。そして、田中家から田中楠之助が天誅組に参加、大谷家から大谷良助が新選組に参加しています。庄屋を勤める両家から、まったく思想の異なる人物が生まれ、それぞれ幕末の動乱の中に身を置いたという事実に注目したいと思います。

 田中楠之助は、文久3年(1863)に天誅組に参加したときに21歳。砲一番組長として活躍し、劣勢となって以降は河内勢と行動をともにし、9月22日に紀州藩の兵営に自首して捕えられました。10月3日には京都六角の獄に入れられ、元治元年(1864)7月19日に首を斬られました。

 大谷良助は、河内からただ一人の新選組隊士でした。父の十助が文久2年(1862)に亡くなったあと、良助が庄屋を継いだようです。そして、庄屋を継いで間もなく、良助は新選組へと身を投じたようです。新選組に入隊した理由や、正確な時期は明らではありませんが、入隊は慶応元年(1865)の初めのようです。ところが、その年の3月4日(3日とも)に死亡しています。死因は事故死とも考えられますが、切腹の可能性が高いようです。理由はわかっていません。

 田中楠之助の父も大谷良助の父も、天誅組の記録方を務めた伴林光平から歌を学んでいました。そのため、田中楠之助が天誅組に走ったことは理解できます。楠之助が斬首されたのが文久4年(1864)7月で、その半年後に大谷良助が新選組に入隊し、すぐに切腹したようです。良助に何があったのでしょうか。今となっては、何もわかりません。

(文責:安村俊史)

田中楠之助の石碑
写真:田中楠之助の石碑

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