安福寺の夾紵棺9

2018年3月12日

安福寺と叡福寺

 安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の一部である可能性があることを指摘しましたが、いくら近いとはいえ、安福寺と叡福寺とは直線距離で5kmも離れています。まして叡福寺北古墳は、聖徳太子の墓として叡福寺によって管理されていたはずです。その棺が安福寺に持ち込まれることがあったのでしょうか。次に、安福寺と叡福寺との関係について考えてみたいと思います。

 叡福寺の南に西方院という寺院があります。叡福寺の塔頭の一つで、もとは西方尼院と称する尼寺でした。本尊の阿弥陀仏は聖徳太子の作と伝えられています。この寺院は、聖徳太子の乳母であった月益(つきます)、日益(ひます)、玉照姫(たまてるひめ)という三姫の創建とされます。この尼院を安福寺の珂憶が支援していたことが史料に見えます。西方院の扁額も珂憶の筆によるものです。

 また、安福寺は叡福寺とも関係をもっていたことが史料に見えます。延宝3年(1675)に、珂憶が二粒の仏舎利を聖徳太子の御廟に寄付したということです。その際の叡福寺からの礼状が残っており、仏舎利を末永く守っていくと記されています。どうやら珂憶は聖徳太子を深く敬っていたようで、そのために西方院や叡福寺に寄進をしていたようです。

 明治12年(1879)の『聖徳太子磯長墓實檢記』によると、夾紵棺の破片が約2斗(36リットル)あったということです。このころには夾紵棺は粉砕し、かなり小片になっていたと考えられます。もし、安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の一部だとすると、明治よりもかなり以前に持ち出されたと考えざるをえません。もしかすると、延宝3年に珂憶が仏舎利を寄付した際に夾紵棺の一部をいただいたのかもしれません。あるいは聖徳太子を信仰する珂憶が、太子の棺の一部を授かりたくて仏舎利を寄付したのかもしれません。なぜなら、その仏舎利を太子の御廟すなわち叡福寺北古墳に納めたと記されているのです。仏舎利は塔などに納めるもので、古墳に納めるのはおかしな話です。延宝3年ごろならば、夾紵棺がある程度原形を留めていたことも考えられます。この仏舎利寄進と夾紵棺が結びつかないだろうかと考えています。今後の新たな史料に期待したいと思います。

(文責:安村俊史)

叡福寺
図a:叡福寺(『河内名所図会』より)

西法尼院
図b:西方尼院(『河内名所図会』より)

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