安福寺の夾紵棺8
聖徳太子の棺か
安福寺周辺では、終末期古墳は発見されていません。まして夾紵棺が皇族クラスしか使用できなかったと考えると、候補になるのは、用明陵や推古陵、叡福寺北古墳などのある磯長谷の古墳群です。叡福寺北古墳、すなわち聖徳太子がその候補の一つとなるのです。
安福寺の夾紵棺は、長さ94cm、幅47.5cm、厚さ3cmあります。棺の長さが約1mでは短すぎるので、棺の小口(側面の短辺)部分だと考えられます。夾紵棺で大きさがわかっているのは阿武山古墳のもののみで、ほぼ完全な形で残っていました。棺蓋は長さ203cm、幅68cm、高さ9cm、棺身は長さ197cm、幅62cm、高さ52cm、厚さ2.3cmで20枚以上の麻を重ねていました。安福寺の夾紵棺が小口とすると、阿武山古墳の棺幅62cmよりもかなり大きくなります。しかし、叡福寺北古墳には聖徳太子の棺を安置するための棺台と呼ばれる台があり、その棺台の大きさが長さ242cm、幅109.5cmなので、幅100cmの棺ならばうまく納まりそうです。
阿武山古墳の棺台は長さ231cm、幅82cmです。これと夾紵棺との比率を求めると、長さが85.3%、幅が75.6%となります。安福寺の夾紵棺と聖徳太子棺台幅との比率は91.3%となり、阿部山古墳の比率よりやや大きくなります。夾紵棺を出土しているほかの古墳の棺台の大きさはどうでしょうか。牽牛子塚古墳の棺台は、長さ183cm、幅78cmです。天武天皇の棺台は長さ210cm、幅75cmです。叡福寺北古墳の奥の棺台が長さ197cm、幅91cm。手前左の棺台が長さ216cm、幅91cmです。以上のように、安福寺の夾紵棺が棺の小口部分で間違いないならば、この大きさの棺を安置できる棺台は、叡福寺北古墳の手前向かって右側の棺台、つまり聖徳太子の棺台とされているもの以外に考えられないのです。ここから、安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺だったのではないかと考えられているのです。
聖徳太子の棺台の長さ242cmの90%が棺の長さとすると、約218cmとなります。棺台と安福寺夾紵棺から推定すると、聖徳太子の棺身の大きさは、長さ約218m、幅約100cm、高さ47.5cmと復元できます。夾紵棺としては、かなり大きなものであったことになります。現在の破片の重さが約10kgなので、夾紵棺全体では100kg前後の重量だったと考えられます。そして、安福寺の夾紵棺が聖徳太子の棺の小口部分であった可能性が大きくなるのです。ただし、これ以外にも夾紵棺をもつ古墳が存在すると考えられることなど、未確定の要素を含んでいることをご理解ください。
(文責:安村俊史)
図:阿武山古墳の横口式石槨復元図
(高槻市立今城塚古代歴史館『阿武山古墳と牽牛子塚』より)