安福寺の夾紵棺5
安福寺の歴史
夾紵棺の話はしばらくおいて、ここでは夾紵棺を所蔵している安福寺という寺院について紹介したいと思います。安福寺は、柏原市玉手にある浄土宗知恩院末寺の寺院で、阿弥陀如来を本尊とします。奈良時代に行基が開基し、その後荒れていた寺院を寛文10年(1670、寛文6年とする記録もある。)に珂憶(かおく)という僧侶が復興したと伝えられています。
周辺の発掘調査では、これまでに古代の瓦が出土していません。また、行基が開基した寺院の中に安福寺の名は見えず、行基が柏原市周辺で活動した痕跡も認められないことから、行基が開基したということはもちろん、古代から続く寺院の可能性も小さいと考えられます。現在確認できるもっとも古い瓦は鎌倉時代のものです。建長年間(1249~56)に親鸞の門弟・慶西が開いたと記す記録もあり、これならば瓦の年代にも一致します。
珂憶は、寛永12年(1635)12月1日、若狭国の里見義勝の子として生まれました。寛永18年(1641)、江戸深川霊巌寺の珂山の弟子となり、正保2年(1645)には珂碩の弟子となりました。珂碩は江戸に浄真寺を開基し、珂憶もそこで修行を続けましたが、万治2年(1658)に諸国修練の旅に出ます。そして、寛文10年(もしくは6年)に安福寺を復興しました。珂憶は、珂碩から江戸浄真寺の二代目住職を任されますが、安福寺に残りながら浄真寺の堂舎整備などに尽力したようです。
珂憶は安福寺の堂舎の整備も行いますが、それには徳川御三家の一つ尾張徳川家の支援が大きかったようです。尾張名古屋藩の二代徳川光友は、珂憶の学徳を尊敬し、さまざまな宝物や寺田を寄進しました。このような経済的支援とともに、尾張徳川家の威光も安福寺の復興に大きく貢献したことでしょう。
徳川光友の墓塔も安福寺にあります。境内墓地の奥、玉手山7号墳の前方部に玉垣を巡らせた3基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。その中央が光友、向かって左が側室の松寿院(勘解由小路)、右が三男(実際は長男)の松平義昌(梁川藩)の石塔です。尾張徳川家からは、明治になるまで浄財が届けられていたということです。
(文責:安村俊史)
図:玉手山安福寺(『河内名所図会』より)