安福寺の夾紵棺3
夾紵棺の事例
これまでに夾紵棺が出土した古墳は7基で、安福寺の夾紵棺を含むと8例となります。ただし、叡福寺北古墳には複数の夾紵棺が納められていたと考えられます。また、平野塚穴山古墳、ツカマリ古墳、八幡山古墳のものは、棺ではなく、箱状の容器だったと考えられます。よって、棺としての夾紵棺で確実なものは、野口王墓古墳、牽牛子塚古墳、叡福寺北古墳、阿武山古墳の4古墳のみとなります。
野口王墓古墳は、天武・持統天皇の合葬陵で間違いないでしょう。持統は火葬骨を骨蔵器に納めており、天武の棺が夾紵棺だったことがわかっています。ただし、夾紵棺の規模や構造がわからず、使用されていた布が絹か麻かもわかりません。
牽牛子塚古墳は、斉明天皇と娘の太田皇女の古墳と考えられます。出土した夾紵棺は小片ばかりですが、麻を35枚重ねて作られていたことがわかっています。
叡福寺北古墳は聖徳太子(本来は厩戸皇子あるいは厩戸王と呼ぶべきであるが、ここでは聖徳太子の名称を採用する)と母の穴穂部間人皇女、妃の膳菩岐々美郎女が埋葬された古墳と考えられます。棺台が三つあり、奥の石室に直交する棺台が母、手前向かって右側が太子、左側が妃と伝えられています。母の棺は不明ですが、太子だけでなく妃の棺も夾紵棺だったと考えられています。明治12年(1879)の記録では、夾紵棺の破片が2斗(36リットル)あったということです。しかし、残念ながら現在に伝わる夾紵棺の資料はまったくなく、その材質や構造は不明です。
阿武山古墳は高槻市にある古墳で、藤原鎌足を被葬者とする説が有力です。発見当時は夾紵棺がほぼ原形を留めていたようですが、古墳から運び出されて調査後に古墳に戻されたときには、大きく歪んでしまっていた写真が残されています。この夾紵棺は現在どうなっているのでしょうか。おそらく原形を留めていないのでしょう。調査によって、20枚以上の麻で作られていることがわかっています。
以上のように、天武天皇、斉明天皇、聖徳太子(厩戸皇子)、藤原鎌足と超一級の被葬者に夾紵棺が使用されていることがわかります。それでは、安福寺の夾紵棺は、いったい誰の棺なのでしょう?
(文責:安村俊史)
表:夾紵棺出土古墳一覧(柏原市立歴史資料館『群集墳から火葬墓へ』より)