玉手山東横穴群
玉手山は、大和川と石川の合流点近くを北限とする、標高100m前後の小丘陵です。安福寺横穴群は玉手山丘陵の西斜面、玉手山東横穴群は東斜面にあり、ともに玉手山凝灰岩層に営まれています。
安福寺横穴群と玉手山東横穴群
これまでにA~Cの3群に分けられ、計35基の横穴が確認されています。大阪府教育委員会による1968年の調査後、多くは破壊されてしまいましたが、現在もいくつかの横穴が残っています。この横穴群の造墓活動は6世紀後葉から6世紀末葉まで続けられました。
高井田や安福寺の横穴群に比べると、造営年代がやや遅れ、玄室規模もやや小さい横穴が多く、やや劣るという印象はぬぐえません。
玉手山東横穴群周辺の地形
玉手山東横穴群 A群
玉手山東横穴群 B群
図出典:大阪府教育委員会『柏原市玉手山東横穴群 発掘調査概報』1969
埋葬施設
埋葬施設は組合式木棺を主体に、A群で造付(つくりつけ)石棺が、B群では高井田・安福寺横穴群には見られない自然石を使った箱式石棺が認められます。また陶棺が1基採集されており、箱式石棺とあわせてこの横穴群の特徴となっています。
なおA群とB群の間では、切り込み段をもつものがA群に多いという違いが認められ、A群の方がより精巧に掘削・構築された傾向にあります。
※切り込み段…壁と天井の境に幅10cm程度に切り込まれた段。何を表現したものかはよくわかっておらず、家の軒先を表現したという説や九州の横穴式石室を模倣したとの説もある。
またB群4号横穴は、出土した金環の数からみて6体前後の死者を埋葬・追葬していたと考えられます。黒色土器や承和昌宝(835年鋳造)の出土から、平安時代にも何らかのかたちで利用されたようです。
玄室の構造
初期の横穴ほど面積が広く、平面形は方形もしくは横長方形であり、天井と壁面との間に切り込み段が造られ、時期が下るに従って小型化、縦長方形化、切り込み段が消滅する傾向にあります。ただ、小支群単位でも違いがあるようです。
また排水溝や敷石などの施設が、多くの横穴で認められています。これは安福寺横穴群との大きな違いとなっています。
副葬品
土器類の他に金・銀環、銀鈴などの装身具が比較的豊富で、武器は刀が1本出土しているのみです。高井田横穴群以上に、武力的な性格が薄い被葬者集団ではないかと考えられます。