1.大和川の歴史
大和川のおいたち
はるかな昔から大和川は洪水を繰り返し、とても長い時間をかけて大阪平野がつくられてきました。
2万年前<海がない>
今から2万年くらい前、氷河期の終わり頃で、とても寒く氷が多かったので、海面はかなり低くなっていました。大阪湾や瀬戸内海にも海はなく、大和川や淀川の水を集めた川が、大阪湾から太平洋に流れていたようです。
約5500年前<河内湾ができる>
氷河期の後、少しずつ気温が上昇、氷が溶けて海面も高くなり、5500年前ごろには大阪平野に海ができました。今の東大阪市や八尾市まで海が広がっていたのです。これを「河内湾」と呼んでいます。今の大阪市の中心部がある上町台地が、半島のように北へのびていました。
約2000年前<湾が少しずつ埋まって河内湖に>
また気温が下がって海面が低くなり、河内湾には海水が入らなくなりました。そのうえ大和川や淀川がたくさんの土や砂を運んでくるため、何度も洪水を起こし、少しずつ大阪平野がつくられていきました。水域が狭くなるにつれて、「河内湾」は「河内湖」となり、1800~1500年前には完全に淡水化しました。
やがて大阪平野ができた
それからも大和川は洪水を繰り返し、河内湖も少しずつ小さくなっていきました。このころの大和川は決まった流れもなく、洪水のたびに流れを変えていたようです。このようにして大きな大阪平野がつくられ、米作りが広がると、大和川の水は水田の水として利用されました。河内湖は新開池や深野池(ふこのいけ)として、大和川が付け替えられた300年前にも残っていました。
また、大和川は交通路としても重要でした。飛鳥時代、遣隋使の帰国とともに来た裴世清(はいせいせい)の記録などからも、大和川を舟で行き交い、大陸の文化が取り入れられていたことがうかがえます。大和川は私たちの暮らしや文化、産業などと深く結びつくようになっていきました。
川跡が見つかった遺跡
遺跡の発掘調査などで見つかった川跡から大和川の変遷をたどってみましょう。
亀井遺跡(八尾市南亀井町)
弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落が見つかった遺跡として有名ですが、弥生時代から江戸時代に至るまで流れを変えながら幅数十メートルに及ぶ川跡が、数箇所で確認されています。これらの川は、西もしくは北西へと流れており、後の平野川の前身となる川と考えられます。江戸時代に東除川(ひがしよけがわ)が大和川付け替え後に埋まった跡も見つかっています。
周辺の遺跡からも、これらの川の延長部分が確認され、大規模な川が絶えることなく流れていたことがわかっています。そのため、現在の平野川が、ある時期には旧大和川の本流だったのではないかと考えられています。
小阪合(こざかい)遺跡(八尾市中央部)
長瀬川と玉串川に挟まれた沖積地に位置しています。弥生時代後期から中世にかけての旧大和川の流れの一部と思われる川跡が多く確認されています。奈良時代から平安時代にかけて、川は南から北に流れており、幅6.5m、深さ0.6mの規模があり、護岸のための杭を打った施設も見つかりました。これらの川は、八尾市八尾木(ようぎ)付近で旧長瀬川から分流していた痕跡がうかがえますが、その時期や流路については明らかになっていません。
佐堂(さどう)遺跡(八尾市北西部)
近鉄大阪線と中央環状線が交差する付近に広がる遺跡で、南側には旧大和川の本流であった長瀬川が流れています。
弥生時代中期に多数の川が流れていましたが、古墳時代前期になると長瀬川の前身と考えられるような規模の川が遺跡内を流れていました。その後、7世紀代と思われる左岸の堤跡が確認されています。この堤は一列に打ち込んだ杭に小枝をからめて盛土をしたもので、幅10m以上、高さ1.3m以上の規模であったことがわかっています。ところがこの川は、10世紀頃にはこの堤の南側を流れるようになり、それまで左岸だった堤は拡張されて右岸として利用されるようになったと推定されています。また中世には左岸を護岸するための杭や粘土による護岸施設が築かれています。
長瀬川の流路の変遷を知ることができる貴重な調査成果です。
柏原市内の遺跡
柏原市内で旧大和川周辺の発掘調査を行うと、決まって大量の砂と湧水(ゆうすい)に悩まされます。大和川の洪水による砂、旧大和川の地下を流れる伏流水によるものです。柏原病院の新築の際は、現地表下5mまで砂ばかりでした。
柏原病院建設地(法善寺)の洪水砂
船橋遺跡
船橋遺跡内にあたる柏原小学校で、多量の砂で埋まった流路が確認されました。
船橋遺跡の洪水砂
本郷遺跡
本郷遺跡内でも、粘土層を大きく切り込み、北西へ流れる流路の跡が確認されました。平野川(了意川)の旧流路を示すものとみられ、中世から近世にかけての洪水によって埋もれたと推定されます。
本郷遺跡の洪水砂
安堂遺跡
万葉集によると、奈良時代には築留(つきどめ)付近に「河内大橋(かわちおおはし)」と呼ばれる丹塗りの橋が架かっていたようです。その橋の東のたもととみられる安堂遺跡で、人面土器などを出土する井戸が発見されています。もしかすると、水にまつわる祭祀が行われていたのかもしれません。
安堂遺跡の井戸から見つかった人面土器
洪水の歴史
古くは飛鳥・奈良時代から洪水の記録があり、多くの人が治水に取り組んできました。延暦7年(788)に摂津大夫であった和気清麻呂(わけのきよまろ)が河内川(おそらく平野川)を、今の天王寺公園の北側に通して、大阪湾へ流そうと工事に着手しましたが、失敗しています。技術的、資金的問題から実現困難だったようです。天王寺の茶臼山の堀や河堀町付近の凹地がその痕跡だといわれています。
付け替え前の大和川
複雑な地形
現在の大和川は柏原から西へと流れていますが、付け替え前は北や北西に流れていました。この流域は東の生駒山地と、西の上町台地という高い土地に挟まれ、南にはいくつかの丘陵となだらかな傾斜地があります。その複雑な地形に沿って、久宝寺川(今の長瀬川)、玉櫛川(今の玉串川)、平野川などに分かれながら、大坂城の北で旧淀川(今の大川)に流れこんでいました。
旧淀川との合流点の東側は、大阪平野で土地が一番低く、西への傾斜はほとんどないため、勢いよく淀川には流れないのです。このような地形を流れているため、大雨が降って水が増えるとうまく水が流れず、何度も洪水を起こしていました。
付け替え前の大和川
地形以外の洪水の原因
大和川にはもう一つ、やっかいなことがありました。それは、上流の山の土がもろいために、大雨が降ると土砂をたくさん運んでくることでした。とくに江戸時代には木材がたくさん必要となったため、木をどんどん切り、根っこまで抜くようになりました。雨水を一旦貯めて、徐々に川へ水を流す作用も、なくなってしまったのです。根まで抜くことの禁止令も出ましたが、効果はありませんでした。
また、できるだけ洪水の被害が出ないように、大和川の両側の堤防を切れ目のない丈夫なものにしていたので、流れ込んだ土砂が川底にたまりやすくなりました。川の流れを固定したところに、山が荒れて土砂の流出が多くなったことで、川底がまわりの土地より徐々に高くなり「天井川」となっていました。さらに周辺は低湿地であるため、一度洪水が起こると、なかなか水が引きませんでした。
堤防比較調査図(市指定文化財・中家文書)
この絵図の記録によると、寛文(かんぶん)6年(1666)~延宝(えんぽう)3年(1675)の10年間に、以前を上回る早さで急激に川底が高くなっていたようです。
堤切所之覚附箋図(市指定文化財・中家文書)
過去の洪水で堤の切れた場所に、色を分けて付箋が貼ってあります。
堤切所之覚(市指定文化財・中家文書)
貞享(じょうきょう)4年(1687)4月7日に記されたもので、過去の洪水で堤の切れた場所が記録されています。
柏原も何度も洪水に
現在の大和川より北側の柏原市域は、付け替え以前、たびたび洪水にみまわれていました。特に寛永(かんえい)10年(1633)の被害が甚大で、当時の柏原村の大半にあたる40から50軒もの家屋が流失し、36人の死者を出しています。
【柏原船と剣先船】
元和(げんな)6年(1620)と寛永10年(1633)の大規模な洪水被害から村を復興させようと、代官・末吉孫左衛門らの尽力によって了意川から平野川を通り天満まで、荷物を運送する船を通すことになりました。これが寛永13年(1636)秋から運航された「柏原船」です。営業は予想以上に順調で、大和川付け替え後も平野川(了意川)を利用して運行は続き、その収益は柏原村の経済発展に大きな役割を果たしました。しかし、明治以降の鉄道の開通などによって役割を終え、次第に姿を消していきました。
久宝寺川では剣先船が活躍し、肥料(干しイワシ)やしょうゆ、酒などを大坂から運び、農産物などを奈良から運んでいました。河内国の23か村に許可されていた「在郷剣先船」と呼ばれていたものは、付替え前は16か村が船を所持していました。 国分船はそのうちの一つです。剣先船は、亀の瀬の手前の峠村で荷を降ろし、人力で国境を越えたのちに大和の魚梁船(やなぶね)に積み替えられていました。しかし、付け替え後は新十三間川から新大和川を遡ると遠まわりになってしまい、次第に利用が少なくなっていきました。 ※新十三間川…大坂から新大和川の河口である堺の北まで、海を利用して行くのは船の構造上に問題があり、非常に危険でした。そこで、大坂から住吉まで通じていた十三間堀川を、海岸線に沿う形で、新大和川の河口の近くまで延長する工事を行い、剣先船の通路としました。 |
法善寺前二重堤
延宝(えんぽう)2年(1674)、久宝寺川と玉櫛川の分岐点にあった法善寺前二重堤が決壊しました。この頃の大和川は、久宝寺川と玉櫛川に分かれていますが、淀川まで通じている久宝寺川の方が、川幅(左右の堤防間の距離)が広く、一方の玉櫛川は下流に行くほど狭くて、さらに枝分かれしていました。そこで、大雨で水かさが増した時には、久宝寺川の方に多くの水が流れるように、玉櫛川の入口を狭くするための堤防(二重堤)がつくられていました。これが「法善寺前二重堤」です。玉櫛川への流量を抑えていたこの堤が決壊して以降、玉櫛川の流量が増加し、玉櫛川から深野池・新開池付近で洪水が繰り返されるようになりました。
法善寺前二重堤の記録(堤切所之覚附箋図部分)
付け替え工事までの年表 ※柏原市に関係するできごと中心
西暦 | 年号 | できごと |
709 | 和銅2 | 河内・摂津で雨が降り続く |
762 | 天平宝字6 | 狭山池堤決壊、長瀬堤決壊 |
772 | 宝亀3 | 茨田・渋川・志紀堤決壊 |
785 | 延暦4 | 河内国で洪水氾濫し食料も乏しくなる、堤の決壊は30ヵ所、これらを修造 |
788 | 延暦7 | 和気清麻呂、河内川(平野川)の水を西海に流す付け替え工事に着手(失敗) |
806 | 大同元 | 河内・摂津に洪水 |
832 | 天長9 | 大風雨があり河内・摂津に洪水、堤決壊 |
1544 | 天文13 | 畿内洪水、河内・摂津に被害 |
1563 | 永禄6 | 8日間雨が降り続き、河内国で約16,000人死亡 |
1608 | 慶長13 | 風雨が続き摂津・河内に洪水 |
1620 | 元和6 | 洪水により柏原村で堤決壊、24,000石の被害 |
1633 | 寛永10 | 柏原・船橋・国府村で堤決壊、柏原村で家屋50戸破損・36人死亡 |
1635 | 寛永12 | 国分・船橋・弓削村で堤決壊 |
1636 | 寛永13 | 柏原船営業開始 |
付け替え運動へ
この状況を克服しようと、万治(まんじ)2年(1659)ごろから、河内地域の農民による抜本的な改革案として、「大和川を西に向け、直接、住吉・堺の海へ流れ込むように付け替える」ことが嘆願されるようになりました。やがて今米村(今の東大阪市)の中甚兵衛らが中心となり、付け替え運動が展開していきます。