源平合戦以来の又兵衛の手柄
小松山の戦いで散った後藤又兵衛
大坂夏の陣において柏原市域でおこなわれた小松山の戦い、その駆け引きは、慶長二十年(一六一五)五月五日に始まりました。『大坂御陣覚書』によると、河内と大和の国境に位置する亀の瀬を背にして戦おうとする豊臣方に対して、徳川方は既に国分に到着しており、徳川方が先手を取る形となりました。
しかし、ここから両軍共に誤算が生じていきます。まず、徳川方は国分どころか片山にまで進撃しており、大和の武士たちは水野勝成に片山に陣取ることを勧めます。しかし、勝成は徳川家康と秀忠より直々に先鋒を命じられたのだから口出しするなと、この策を却下しました。実はそれだけでなく、勝成は豊臣方の方が大軍であると誤認し、片山は包囲されると守りにくいので国分で迎撃する方が得策と判断したのです。
『御撰大坂記』によると、伊達政宗の重臣の片倉重綱も勝成と同様に、片山の山上に陣を取るべきではないと考えていました。地元の大和武士と、遠征軍の水野・伊達軍の間で意見が分かれ、徳川方は片山を放棄したのです。
それに対して、五月六日未明、後藤又兵衛は速やかに片山を占領し、玉手山丘陵を利用することで、徳川方を半日近くも食い止める働きをすることになります。ところが豊臣方は大和路の徳川方を越える大軍どころか、又兵衛だけが先行して、後続が続いていなかったのです。そのため、又兵衛の十倍以上の軍勢を有する徳川方が、玉手山丘陵を包囲することが可能になりました。支えきれなくなった又兵衛は道明寺方面に下山したところで銃撃を受け、正午頃に戦死してしまいました。
賞賛される又兵衛
わずかの兵で大軍を食い止めた又兵衛の活躍は、当時から賞賛されていたようです。大坂夏の陣の直後、牢人中の又兵衛を援助していた、播磨一国の鋳物師を統括する姫路の芥田五郎右衛門は、又兵衛の身を心配して、又兵衛の叔父の助右衛門に手紙を書きました。それに対して、助右衛門が五月十二日に書いた返信が『芥田家文書』に残っています。
そこには、大坂城は落城し皆死んだと伝える中で、又兵衛も六日に討ち死にしたが、その手柄は、「けんへい以来有間敷」、すなわち源義経や弁慶が活躍した源平合戦以来なかったほどすばらしく、「日本のおほへためしなき」、日本全国でもその評判は他に例がないと絶賛しています。
五月十二日といえば、徳川秀忠が落人狩りを指示し、十五日には豊臣方の有力武将である長宗我部盛親が処刑されています。そうした緊迫した情勢で、このような又兵衛を賞賛する手紙が、徳川方の手に落ちたならば、助右衛門も芥田五郎右衛門も命はないでしょう。それでも書かずにはいられなかったところから、又兵衛の活躍ぶりを知ることができます。
また、小倉の細川家や鹿児島の島津家なども、昔も今もない手柄だ、比べるもののない働きだと、又兵衛に暖かい視線を送っているのです。
武名高き又兵衛
後藤又兵衛は豊臣方に味方した牢人衆の中でも卓越した存在でした。現在では真田丸を守った真田信繁(幸村)がよく知られた武将ですが、当時は父の昌幸が上田城で何度も徳川軍を破ったことで有名だったのに対して、信繁自身はほとんど実戦経験のない無名の存在でした。長宗我部盛親も土佐一国の大名だったとはいえ、関ヶ原の戦いでは戦う機会がありませんでした。
それに対して、又兵衛と毛利勝永、明石全登は豊臣秀吉の統一戦争や朝鮮、関ヶ原で実戦経験があり、かつては一万石以上の領主として軍勢を指揮しました。
特に又兵衛は、『芥田家文書』によると、大坂冬の陣の始まる半年前に、徳川家康がわざわざ、旧主黒田長政との関係を取り持つ程の存在でした。家康は、又兵衛は京都に住んでよいが、母と嫡男は福岡に下すことを条件に、又兵衛を黒田家に帰参させようとします。しかし、交渉は七月頃に決裂し、十月には又兵衛は大坂城に入城します。家康は大坂の陣があることを想定し、又兵衛が豊臣方に味方させないために黒田家へ復帰させようとしていたのでしょうか。それはわかりませんが、家康が気に懸ける存在であったことは間違いありません。
徳川方の大軍が大阪平野に集結するのを阻止し、個別に撃破しようとした五月六日の小松山・道明寺の戦いや若江・八尾の戦いは、豊臣方にとって勝算が少ないながらも戦略的な戦いでした。しかし、七日の天王寺口の戦いは、一発逆転を目指し家康の首を狙うという破れかぶれの攻撃をしかけるしか、豊臣方には手立てが残されていませんでした。又兵衛を失った小松山の戦いが、大坂夏の陣の帰趨を決したのです。
(文責:天野忠幸)