小松山の戦いで散った後藤又兵衛の名は?
豊臣方の武将の名前
大坂の陣のヒーローと言えば、なんと言っても「真田日本一の兵」と称えられた真田幸村でしょうか。しかし、「幸村」という名を生前に使用した事例は確認できず、「信繁」が正しいことが既に明らかにされています。信繁が「幸村」として表れるのは、寛文12年(1672)に成立した『難波戦記』で、この物語が大変な人気を博したため、「幸村」の方が知られるようになったとされています。信繁の父親昌幸や祖父幸綱が「幸」の字を用いており、「幸村」はよくできた名前です。
これは『難波戦記』の作者が、信繁の名を知らなかったため、創作したのかもしれません。当時、実名は諱、忌み名と呼ばれ、主君が家臣を呼ぶ時などを除くと通常の生活ではあまり使いませんでした。信繁の場合は官職名から「左衛門佐」と呼ばれたのです。そのため、実名が知られていなかったり、誤って知られたりすることもあったのです。
もしくは、知っていたが徳川将軍に敵対したのを憚って、わざと変えたのかもしれません。浮世絵などで、豊臣(羽柴)秀吉を「真柴久吉」、大石内蔵助を「大星由良之助」と記した事例もあります。
実は大坂の陣で豊臣方に味方した部将は、名前がよくわからない者が多いのです。信繁よりも先に樫井の戦いで討ち死にした塙団右衛門直之(直次)は、本人の自筆書状では「半団右衛門勝忠」と名乗っています。
後藤又兵衛の実名は?
大坂夏の陣において、大和から大阪平野に迫る徳川家康の六男松平忠輝と陸奥の独眼龍伊達政宗を、柏原市域で迎え撃った後藤又兵衛は、その活躍を徳川方からも賞賛されています。彼の名前はどうでしょうか。
又兵衛の実名は「基次」がよく知られています。ところが彼の発給した文書はほとんど残っておらず、「又兵衛」または「又兵へ」と記されていても、「基次」と記されているものはほとんどないようです。
ところが、東京大学史料編纂所が編集した『大日本史料』十二編之十八に収録されている加賀前田家所蔵の又兵衛の書状には、「後又兵へ正親」と記されているのです。年月日は正月十四日とあるのみですが、内容は「大ちうかん老」という人物に対して、蜜柑を送られた謝意を告げ、帰国する前に一度心静かに話しをしたいと伝える一方、今日が明日になると全てが変わってしまうような、定めなき浮世の習いこそが面白いと述べるなど、乱世の宿命を語っていることから、夏の陣のおこる慶長二十年(元和元年、一六一五)のものと考えられています。
今までは「正親」という名はほとんど知られていませんでしたが、系図を見ると、又兵衛の子供たちは名前に「基」の字がつく者と「正」の字がつく者の両方がいるので、あながち偽文書とも言えません。又兵衛は「基次」から「正親」へと改名したのかもしれず、今後の研究が待たれるところです。
小松山の戦いも当時は?
後藤又兵衛が壮烈な討死を遂げた小松山の戦いですが、実は当時はこのような名前で呼ばれていませんでした。又兵衛を討ち取った片倉小十郎重綱が、八月十三日に主君の伊達政宗に提出した覚書では、「勝田山」と記されています(『伊達家文書』)。重綱は「片山」で「勝った」ことに因んで、わざと片山に「勝田山」という字を当てて記したのでしょう。
『河内鑑名所記』や『大坂御陣覚書』、『御撰大坂記』ではいずれも、「片山」と記されています。『河内鑑名所記』には「勝松」も出てきますが、これも元からある地名ではなく、徳川方の勝利に因む名称と言えそうです。
片山の戦いが、いつ小松山の戦いになっていったのか、その背景は何か、まだ謎は残されているのです。
(文責:天野忠幸)