リゾート地だった玉手山 日本最初の週末リゾートは玉手山に誕生した
昭和5年(1930)8月、日本最初の週末リゾート、「コロニーハウス・土曜の家」が、大阪府南河内郡玉手村(現・柏原市玉手町など)にオープンした。
「コロニーハウス」とは、普段、自然に親しむ機会の少ない都市住民に、週末を利用して手軽に豊かな自然を楽しんでもらおうと建設された貸し別荘で、20世紀の初めごろドイツで建設された「ラウベン・コロニー(小屋の集落)」を始まりとする。当時、欧米で流行した都市近郊のオアシス、週末リゾートとでもいうべき施設で、その日本での最初の試みとして誕生したのが、玉手の「コロニーハウス・土曜の家」である。当時の玉手が、大都市・大阪市から、ほどよく離れた位置にあり、豊かな自然に恵まれ、かつ交通の便が良いという、設置の条件にかなっていたからだ。大阪電気軌道(=大軌。現・近畿日本鉄道)の「上本町」(上六)駅から約30分で到着できたようだ。最寄りの下車駅は「河内国分」、運賃は大人片道32銭である。大阪時事新報社(後の大阪新聞。「時事新報」の題字など一切の権利は現在も産経新聞が保有)が、地元土地所有者の協力を得て、オープンした。
「コロニーハウス・土曜の家」は、玉手町地区などのある丘陵地、通称・玉手山の東側斜面、果樹園(みかん、桃、ぶどう、柿、梨など)の中にあった。国分駅の南西方向、原川に沿って約150メートル進んだところに入口があったというから、現在の旭ヶ丘1丁目の住宅街のあたり、つまり柏原市立老人福祉センターの東側一帯に広がっていたと推定される。2人用(4畳半)と5人用(8畳)の平屋建てのハウス(バンガロー)各4棟ずつ計8棟と、食堂、浴場、娯楽室、売店などから成り立っていた。ハウスは、トイレ、押し入れ付きで、幅約1メートルのベランダまで付いており、棟ごとに「葡萄の家」「蜜柑寮」「ダリアハウス」などとネーミングされていた。食堂は、池の上に張り出しテラス状に設けられていたという。
利用料金は、昼間(日帰り)利用(午前10時~午後4時30分)で1人50銭、夜間(1泊)利用(午後5時~翌日午前9時)だと1人1円。子ども(5歳~15歳)は半額だ。昼夜通しての利用も可能で、その場合の利用料金は1人1円50銭となる。上六の大軌ビル(ターミナルビル。現・近鉄百貨店上本町店)1階・大軌電車乗客係室又は土曜の家・敷地内の事務所で、利用券(=ハウス券。昼券、夜券の2種類があった)を購入するシステム。電話などによる申込みも受け付けていた。弁当持込みも可だった。当時の新聞記事(昭和5年8月1日付け大阪時事新報)には、「30分で行ける1円の避暑の家」「1夜泊まりの避暑の家」などとある。「1円リゾート玉手山」といったところか。
みかん狩りの季節などには、上六から大人65銭・子ども35銭で、入園券付き乗車券(往復だと思われる)が発売されたという。果樹園の入園料は、大人30銭・子ども15銭だったから、随分お得だ。もちろん、食べ放題である。
昭和5年ごろの物価を見ると、1か月の新聞購読料が80銭~1円、NHKの受信料(ラジオ)が1か月1円、映画代が50銭~2円50銭、帝国劇場の観劇代が45銭~10円、月刊誌が1冊40銭~80銭、レコード(SP片面盤)が1枚1円30銭などだったという。こうしてみると、1泊1円というのは、けっこうリーズナブル(お手ごろ価格)だったようである。ちなみに帝国ホテルは、1泊15円(より)だ。
ところで、みかんは、当時、100貫(375キログラム)で22円13銭だったらしい。100貫という分量から見て卸値や仲買価格だと思われるが、あるいは小売価格なのかもしれない。1キログラムあたり約6銭になる。もし、小売価格だったとすると、大人30銭という果樹園の入園料は、けっこう、いい値段(高価)だったことになる。しかし、逆に果樹園の入園料が30銭なら、土曜の家の昼間の利用料金50銭は、お手頃だったともいえる。いずれにせよ、電車の往復運賃(64銭)より安かったのだから。この点から見ても、かなりリーズナブルだったと言えそうである。
この週末リゾート、園内での果実狩り、目の前を流れる原川での川遊び、近くの大和川での魚釣りや周辺の史跡の散策などで、けっこう人気は高かったようだ。西日本最初の遊園地である玉手山遊園(明治41年・1908年オープン、平成10年・1998年閉園。現在は柏原市立玉手山公園)もすぐ近くにあった。さらに、当時は、夏にはホタル狩り、秋にはマツタケ狩りもできたとか。
ここがオープンした昭和5年といえば、その前年(1929)のニューヨークでの株価大暴落に始まる世界大恐慌のまっただ中にあった時期。特に日本は、関東大震災(大正12年・1923)以後の不況と、それに続く、いわゆる昭和金融恐慌(昭和2年・1927)による不況に連続しての、いわばトリプルパンチとあって、まさに大変な状況下にあった。「大学は出たけれど」の時代だ。現在より、はるかにエリートだった大卒者の就職率が約30パーセント、全国の失業者は推定約250万人にも上ったという。歳出拡大などの積極策で昭和7年(1932)ごろには早くも景気を回復したものの、世間は、その後、戦時体制下に入っていくことになる。しかし、そうした中にあっても、いやむしろ、そうした中にあったからこそ、手軽に利用できる週末リゾートにやすらぎを求める人々は少なくなかったのかもしれない。
玉手山の一帯は、4世紀の古墳群であるとともに大坂夏の陣の古戦場でもある。尾張徳川家2代・光友の廟所や6~7世紀の横穴(墓)群などのある名刹・安福寺も玉手山にある(実は、「玉手山」というのは安福寺の山号である)。このほか、西国三十三か所五番札所の葛井寺、菅原道真ゆかりの道明寺や道明寺天満宮(いずれも藤井寺市)にも近い。江戸時代から、すでに景勝地として知られており、寛政4年(1792)には上方方面を旅行中の小林一茶が訪れている。
雲折りおり まさに青葉見ゆ 玉手山 (一茶)
「コロニーハウス・土曜の家」は、いつごろまで営業していたのか不明だ。時局柄、第2次世界大戦ごろまでには閉鎖されたと思われるが、その後、同地区では、昭和33年(1958)に大阪府立青少年レクリエーションハウス山の家がオープンしている。青少年健全育成のための施設だ。府立青少年山の家は、昭和54年(1979)3月に廃止となったが、その建物は現在、市立老人福祉センター(昭和56年・1981年6月オープン)の別館として利用されている。
このあたりからの景観は、実際にすばらしい。眼下には市街地が横たわり、眼前には大和川の流れや生駒の山並みが広がっている。市立玉手山公園の展望台に立てば、晴れた日には大阪市街はもとより、遠く六甲の山々や淡路島まで見渡すことができる。こうした景観にも恵まれた玉手山は、昭和の初めごろから半ば過ぎまで、都市近郊リゾートとして親しまれていたようである。
【参 考】
「大阪時事新報」 1930.8.1付け
「柏原市史」第3巻 1972.3 柏原市
「玉手山物語」 2000.7 柏原市
「かしわら歴史物語」 2005.3 柏原市
「物価の文化史事典」 2008.7 展望社 他
(文責:宮本知幸)