柏原市の誕生 ~合併から市制施行まで~

2011年4月19日

 昭和31年(1956)、柏原町と国分町が合併して成立した新しい柏原町は、昭和33年(1958)10月1日、市制を施行。ここに「柏原市」が誕生した。それから50年余。ここで、改めて柏原市誕生の歴史をひも解いてみることにしよう。それは、昭和史のドラマである。

1. 市制実現に向けて 合併への模索

【昭和24年(1949)7月~昭和29年(1954)1月】

 第2次世界大戦終戦直後、強烈なインフレの嵐が吹き荒れ、急激な都市整備の必要性ともあいまって、全国の都道府県や市町村は、財政危機に直面していた。昭和20年代後半には、多くの市町村が赤字財政だったといわれている。当時の中河内郡柏原町も例外ではなかった。

 このような状況をなんとか打開しようと、昭和28年(1953)10月1日、町村合併促進法が施行され、町村合併が積極的に促進されることになった。市町村の、行政能力の充実化、運営の能率化、基盤の強化などによって、地方財政を立て直そうというわけだ。いわゆる、「昭和の大合併」の始まりである。

 それ以前から、現在の柏原・八尾市域でも合併の話はあったが、「話」の段階に留まっており、まだ本格的に動き出してはいなかった。合併に向けて本格的、具体的に動き出したのは、促進法施行以降のことである。

 さて、それでは、どのような形で合併するのだろうか。その一つの「回答」が、八尾市と柏原町、国分町、南高安町、志紀村、高安村、曙川村、三野郷村の1 市3町4村(8か市町村)が合併するという案(合併推移図1)、八尾市が昭和24年(1949)7月から周辺の町村に呼びかけていた形態である。当時の柏 原町では、大阪市の東部地域を一体とした合併こそ、町を活かす唯一の発展策と考え、八尾市の呼びかけに応じていた。

 ところが、昭和28年12月になって、大阪府から「むしろ柏原町を中心とした新市建設の方が理想的である」との勧告が為された。「柏原町を中心とした新市の建設」、なんとも魅力的な響きである。柏原町を中心に、南高安町、志紀村、曙川村の4か町村が合併して、新しい市を作るのである。(合併推移図2)

 そこで、柏原町は、この案の実現、つまり柏原町を中心とした合併、そして市制施行に向けて、積極的に活動を開始した。昭和29年(1954)1月20日 のことだった。このとき、八尾市と合併するという柏原町の従来の方針が転換されたのである。それは、昭和28年12月23日に八尾市とともに「市制研究会」を発足させた直後のことだった。

 一方、当時の南河内郡国分町では、志紀村とともに、八尾市の呼びかけに対し「保留」の意思を示していた。

合併1
合併2

2. 合併計画の挫折

【昭和29年(1954)1月~3月】

 「八尾市とは合併せず、新市の建設を目指す」という柏原町の方針転換は、八尾市や周辺の町村にとって、不可解以外のなにものでもなかった。なにしろ、それまで柏原町は、八尾・柏原を中心とする大阪市東部地域の一体的合併を積極的に進めていたのだから。八尾市は、しかし、従来の方針を進め、物流、交通、政治、文化の中心地である、総合中堅都市の建設を目指した。

 ここに、柏原町と八尾市、二つの合併構想という対立する構造が現れたのである。このため、他の町村では、自らの態度を保留せざるを得なかった。

 柏原町は、昭和29年(1954)1月12日から開催された「市制研究会」(八尾・柏原を中心とする合併を目指す研究会)の会合を欠席し、周辺町村に新市建設懇談会の設置と参加を打診するとともに、類似の例だと思われる鳥取県倉吉市に質問状を送るなど、新市建設に向けての調査、研究に取り組んだ。併せて、大阪府への陳情も活発に行った。

 ところで、なぜ、柏原町は、八尾市との合併方針を転換したのだろうか。当時の陳情書から推測すると、「(八尾市と合併すると)人口12万あまりの大都市 になり、財政力も一応安定するが、中心への最遠距離が4~5キロとなり、行政の末端への浸透が困難となって、結局、周辺部は放置される恐れがある」から、 というのが理由のようである。中心が八尾市の方に移ることを懸念したのだろう。

 しかし、その後、柏原町にとっては、予想外の事態が出来することになる。そのことには、当時の柏原町の誰もが、まだ気づいていなかった。

3. 合併計画の挫折

【昭和29年(1954)4月~昭和30年(1955)4月】

 昭和29年(1954)4月24日、大阪府町村合併促進審議 会から示された、町村合併計画案(答申)は、柏原町にとって、冷水をあびせられたような内容だった。なんと、柏原町は、どことも合併せず単独でやっていく 形になっているではないか(合併推移図3)。八尾市は、南高安町、高安村、曙川村、志紀村と合併する。他方、国分町、道明寺町、藤井寺町、古市町、駒ヶ谷村、西浦村、埴生村、高鷲村が合併する。柏原町の合併相手は、なし。

 これは、逆に言えば、柏原町は独立の自治体として発展できる適正規模を持った町であると認定されたようなものである。しかし、果たして、そのとおりなのか、それでよいのか。柏原町は、今後どうすべきなのか、簡単に結論が出せる問題ではなかった。実際、南高安町などからは、八尾・柏原を中心とする合併に参 加するのか、しないのか、「11月20日までに回答されたい」と、態度を明確にすることを迫られているほどである。これに対して、11月19日に出された柏原町の回答は「まだ確たる回答をする段階には達していない」だった。

 このうえは、やはり、八尾市と合併するしかないのか。客観的に見て、それが最良の選択肢かと考えた柏原町は、再度、八尾市との合併に傾きかけた。ところ が、今度は、「編入(吸収)合併」か「対等合併」かで、また、新たな議論が沸騰してきたのである。昭和30年(1955)2月4日、八尾市が、「編入(吸 収)合併とする」「合併時期は昭和30年4月1日」「調整に手間取るときは、その区域をひとまず合併からはずす」などと提示してきたのだ。当初は、「対等合併」で了解していたはずだったのにもかかわらず。

 これに対し、柏原町は、あくまで、当初の方針どおり、国分町や志紀村も含めた対等合併で臨むことにした。

 しかし、そうこうしている間に、昭和30年4月3日、八尾市は、編入合併に賛成した南高安町や高安村、曙川村と合併。かくして、柏原町は、取り残されることとなってしまったのである。孤立した柏原町の前には、赤字解消問題が大きく横たわっていた。

合併3

4. 柏原・国分両町の合併 新しい柏原町の成立

【昭和30年(1955)4月~昭和31年(1956)9月】

 そのころ、南河内郡国分町では、道明寺町や藤井寺町などとの 合併に賛成、反対、さまざまな意見があって定まっていなかった。八尾市との合併に失敗した柏原町では、国分町、道明寺町、志紀村との合併を主張する意見があった。しかし、このころ志紀村は、八尾市への編入を望んでいた。そして、道明寺町の望む方向は、藤井寺町などとの合併だった。合併すれば大きな事業もできるし、人口が増えれば地方交付税の交付率も上がる。赤字解消と教育や文化、衛生など、公共施設の整備を望む柏原町にとって「合併」は魅力だった。こうした事情は、国分町でも同じだったようだ。合併促進法の期限、昭和31年(1956)9月30日も迫っていた。

 こうしたところから、実現可能な最良の選択肢として、柏原町と国分町との合併が一気に具体化して行ったのである。(合併推移図4)

 昭和31年8月18日、柏原町・国分町合併促進協議会設立。同日、具体的協議開始。そして、8月27日には、一致を見た意見の内容が両町議会に報告され た。柏原町では、全会一致(18名全員賛成)で、即日可決・承認。国分町でも賛成多数(賛成15、反対1)で9月2日に可決・承認され、同日付けで大阪府に対して合併申請書が提出された。

 これを受けて、9月22日付けで、大阪府知事の決定通知。次いで、9月30日付けで官報に告示され、柏原・国分両町の合併による、新しい「柏原町」が成立したのである。昭和31年9月30日、この日は、合併促進法の最終日だった。ちなみに、従来の名称は中河内郡柏原町と南河内郡国分町だったが、合併により成立した新しい柏原町は「中河内郡柏原町」である。両町議会で、9月13日、国分町域の中河内郡への所属が決議され、翌日、大阪府に陳情されていたのだった。

合併4

5. 財政再建と都市建設を目指した柏原町

 ともに財政赤字で苦しむ柏原町と国分町は、合併直前、国の方針に従って、それぞれ財政再建計画を策定、国の承認を得ていた。柏原町が承認を得たのは昭和31年(1956)9月29日、国分町が承認を得たのは、それより少し前、8月15日のことだった。

 合併で成立した新しい柏原町の、当時の累積赤字は、全部で3,600万円。これを政府債800万円と公募債2,800万円を借り入れ、利子の一部補給も受けて、昭和38年度(1963)までに再建しようという計画である。地方財政再建促進特別措置法の適用による。

 再建初年度である昭和31年度には、再建についての特別措置条例を制定、行政整理(行財政改革)に取り組んでいる。しかし、合併に伴う物件費は、膨れ上 がったようだ。翌、32年度(1957)には、消費的経費の削減に努めるとともに、職員の希望退職を募るなど人件費の抑制にも努めている。税金の滞納整理 や完納促進も積極的に行われた。納税組合が設立されたのも、このころのことである。

 併せて、「合併による五箇年計画の実現」も市制実現のための最重要課題だった。道路の新設や改修、社会福祉施設や教育施設の充実、病院の拡張、雁多尾畑 簡易水道の新設・・・。これらの事業が、柏原、国分、堅下、堅上、それぞれの地区で計画されていた。国庫補助や起債、それに昭和33年度(1958)から は、新設された都市計画税などが、その財源に充てられた。昭和30年(1955)12月28日には、町全域が都市計画区域となり、都市計画も策定されてい る。

 また、合併後最初の町議会議員選挙が、昭和32年(1957)9月15日に行われ、30名の新しい議員が誕生した。投票率は、83.1パーセントだった。

 ちなみに合併前後の町長は、次のとおりである。(敬称略)旧柏原町長=森田桂治郎、旧国分町長=小松一之輔 合併後の新しい柏原町の町長=青木四郎 また、当時の一般会計の規模は、昭和31年度が約1億8,000万円、32年度が約1億6,700万円(いずれも決算)だった。ちなみに、現在、平成24年度の一般会計予算(当初予算)は約226億5,000万円、市議会議員の定数は18である。

6. 市制施行要件改正の陳情

【昭和31年(1956)9月~昭和33年(1958)4月】

 従来、市制施行のための人口要件は、「3万人以上」と、地方自治法に規定されていた。ところが、町村合併法施行後の昭和29年(1954)9月17日には、「5万人以上」と改正されていた。柏原・国分の両町が合併して成立した新しい柏原町の人口は、3万3,000人余りにすぎない。つまり、地方自治法の規定に従う限り、「柏原市」には、なれないのだ。しかし、当時、全国約500市のうち、253市が5万人未満だった。

 柏原町は考えた。「まず、3万人以上で市制を施行し、そのうえで市としての充実を図ればよいのではないか。全国、半数以上の市が、実際にそうしているのではないか」と。

 こうしたところから、柏原町は、全国の人口3万人以上の町村、62か町村に呼びかけて、地方自治法人口要件改正運動を起こしたのである。

 昭和32年(1957)2月から町長など町の理事者や町議会議員が一丸となって再三上京、62か町村の先頭に立って国への陳情を繰り返した。そのかいあって、昭和33年(1958)4月、ついに国会で地方自治法の一部改正が実現。人口要件は、従来どおり「3万人以上」で、よいこととなった。

 しかし、それには、条件が付いていた。

7. 市制施行、柏原市の誕生

【昭和33年(1958)4月~10月】

 「人口3万人以上」で市制を施行できる要件、それは、昭和33年(1958)9月末日までに市制施行を申請する場合に限る、というものだった。改正法の施行は、昭和33年4月5日。もはや期限まで半年もない。

 そこで、柏原町は、4月10日に臨時町議会を開会、即日可決の後、直ちに大阪府に申請した。これを受けた大阪府でも府議会の議決を経て、市とする旨、決定、通知した。中河内郡柏原町を柏原市とする決定である。昭和33年6月20日のことだった。市とする期日は、昭和33年10月1日。

 かくして、ここに「柏原市」が誕生したのである。初代市長には、町長だった青木四郎氏が選出された。10月1日から4日間にわたって、記念式典を始め、提灯行列や花自動車のパレード、記念植樹や記念碑の除幕式その他の祝賀行事が、全市を挙げて行われたという。併せて、市章と市歌も公募によって選定された。

市章
(柏原市章、昭和33年10月1日制定)

今、明けそめる金剛の 峰ゆく雲に光る風 ああ柏原の市民みな この景勝の地に生きて 人の親和を誇ろうよ(柏原市歌、作詞=明珍昇・作曲=伊豆野勝、昭和33年10月1日制定)

合併への模索から市制施行実現まで、実に波乱万丈の道のりだった。

 

※ この文章は、「柏原市史」第3巻(1972・柏原市)の記載などを元に、市制施行50周年を記念して、平成20年4月号から10月号まで「広報かしわら」に連載した同名のコラムを加筆修正したものである。  
※ 図は、「柏原市史」第3巻所載のものを修正添付した。 

(文責:宮本知幸)

 

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