柏原を訪れた国家元首
これまで、柏原市には、公的私的な国際交流を通じ、さまざまな国からさまざまな人々が訪れている。しかし、国家元首クラスの方々が訪れたことは、そう多くはない。明治以降の郷土史の中でも、そうしたことは、これまでに、たった2回あるだけだ。たった2回にもかかわらず、今では、あまり知られていない。このコラムでは、そのたった2回を紹介しよう。
マヘンドラ国王(ネパール)のブドウ園視察
昭和35年(1960)4月、ネパールのマヘンドラ・ビール・ビクラム・シャー・デーヴ国王(1920~1972、在位1955~1972)が来日、大阪府知事の案内で、柏原市大県(堅下地区)のブドウ園などを視察した。急傾斜のブドウ畑に設置された索道(ブドウ搬出用のロープウエイ)や動力噴霧器、共同防除施設など、近代化した柏原の農業と農家を視察するのが目的だったという。このころ、市内のブドウ農家では、急傾斜地でのブドウ栽培作業の改善や大阪府内外の新興ブドウ産地への対抗などのため、積極的に農業振興に取り組んでいた。種なしブドウ(種なしデラウェア)の出荷が始まったのも、このころのことである。
マヘンドラ国王は、立憲君主制を採用した先代トリブバン国王の後を受け、1959年に憲法を公布、総選挙を実施するなど民主的な国づくりを進めようとした。しかし、王権を維持しようとする国王は、改革を進めようとする内閣とは相いれず、しだいに両者は対立していった。そして、1960年、ついに国王は、憲法を停止、議会を解散して首相らを逮捕するという、“国王のクーデター”を起こした。その後、1962年に新憲法を公布、政党を禁止し、首相の任免権も国王が持つなど、きわめて国王に有利な間接民主制を行ったという。マヘンドラ国王の来日は、こうした大激動の時期に行われたものだったわけだ。
その後のネパールは、ビレンドラ国王(マヘンドラ国王の長男)による直接選挙制の復活(1990年)、王族殺害事件(2001年6月)、民主化運動(2006年4月)などを経て王政は廃止され、2008年5月から連邦共和制がとられている。
ネパール国王(右端)のぶどう園視察
チャウシェスク大統領(ルーマニア)の工場視察
昭和50年(1975)4月、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスク大統領(1918~1989、任期1974~1989)が来日、柏原市国分東条町のベアリング工場を視察するとともに、同社と改めてベアリングのプラント輸出協定を締結するなどした。当時の市長が、同社の社長とともに工場前で、50人余りの大統領一行を出迎えたようである。警察も大阪府警本部からの機動隊員150人を含めた、警察官計235人体制で警備にあたったという。
チャウシェスク大統領は、1965年にルーマニア共産党(当時はルーマニア労働党)の第一書記に就任、国家評議会議長(1967~1974)を経て、1974年3月、大統領制の導入により初代大統領に就任した。1965年から20年以上にわたって、独裁的な権力者としての地位にあったが、1989年12月のルーマニア革命で失脚、革命軍によって、エレナ夫人とともに公開銃殺された。しかし、1999年にルーマニアで行われた世論調査では、「チャウシェスク政権下の方が現在よりも生活が楽だった」との回答が過半数を占めている。
いわゆる東西冷戦構造(第2次世界大戦後の米ソ対立、アメリカや西ヨーロッパを中心とする西側諸国とソ連や東ヨーロッパを中心とする東側諸国の対立)の時代(1945年~1989年ごろ)、ルーマニアは、東側の国でありながら、ソ連と距離を置き、積極的に西側諸国に接近しようとしていた。チャウシェスク大統領の来日は、こうした中で行われた。
チャウシェスク大統領視察の記事(昭和50年4月10日付-柏原新聞より)
ともに独裁者との批判もある二人の国家元首だが、ことの評価はさておき、積極的に自らの施策を進めていたことは間違いないようだ。そうした二人が、それぞれの時期に、柏原の農業と工業を視察に訪れている。当時の柏原は国際的にも注目を集める(少なくとも注目を受ける)存在であったと言ってもいいのではないだろうか。
参 考
「柏原市史」第3巻 柏原市 1972
「柏原新聞」 1975.1.30付け、1975.4.10付け
「柏原ぶどうの歴史」 小寺正史 1982
(文責:宮本知幸)