【コラム】大県誕生から1,300年(7)大県郡の成立

2020年11月13日

 養老4年(720)に堅上郡と堅下郡を合併して大県郡になりました。郡の分離をやめて、もとの一郡に戻したということでしょう。なぜ二つに分けた郡を一つの郡に戻したのでしょうか?
 堅上郡の成立が高安城(たかやすのき)の築城に関連するのではないかと考えましたが、郡の合併もやはり高安城に関連するのでしょう。『続日本紀』大宝元年(701)8月条に、「廃高安城、其舎屋雑儲物、移貯干大倭・河内二国」とあり、高安城の廃止が記録されています。さらに和銅5年(712)正月条に「廃河内国高安烽」とあります。唐の脅威が無くなったため高安城は廃止されることになったのです。それでも緊急連絡用の烽火(のろし儲の機能は残されていたのですが、平城京遷都によって高安城は平城京の南西にあたるため、平城京に近い位置に烽火を移したのでしょう。
 これによって高安城は不要となりました。巨麻郷の役割は終わり、居住者も減少したことでしょう。そして、賀美郷とともに一郡を設定する必要もなくなったと考えられます。養老4年(720)の大県郡の成立は、このような事情によるものではないでしょうか。
 『続日本紀』には、人口増加などのために郡を分離する例がいくつかみられます。しかし、郡を合併した例は大県郡以外にみられません。『続日本紀』に記されていない場合もあるかもしれませんが、奈良時代で唯一の例のようです。その原因は、高安城の廃城という極めて政治的な理由だったようです。
 その後、明治に至るまで大県郡が続きます。雁多尾畑の光徳寺所蔵の「大谷本願寺親鸞聖人御影」の裏書に「河内国大方郡」と書かれています。大永二年(1522)の年号が記されており、中世には大県郡を「大方郡」と表記することもあったようです。読みはどちらも「おおがたぐん」なので問題なかったのでしょう。
 江戸時代の史料には「大縣郡」もしくは「大県郡」と書かれており、やはり「縣」と「県」の両方が使われていたこと、読みは「おおがたぐん」だったことがわかります。そして、大県郡の中心部であった、現在の大県1~4丁目付近が「大県村」となります。おそらく鎌倉時代ごろのことでしょう。それ以来、明治まで大県村が続き、現在に至っています。

(安村)

大県コラム写真空からみた堅下地区

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