大和川つけかえと中甚兵衛~7~

2022年2月25日

晩年の中甚兵衛

 宝永元年(1704)の大和川付け替えのとき、甚兵衛は66歳になっていました。江戸時代のことなので、年齢はもちろん数え年です。それでも、66歳で付け替え工事に携わっていたのですから、元気な老人だったのでしょう。

 宝永2年(1705)、新田開発などが一段落した甚兵衛は、浄土真宗本願寺派大坂津村御坊(北御堂)で剃髪しました。法名を乗久(じょうきゅう)といいます。新田の経営は九兵衛と五郎平に任せました。同じ年に今米村の庄屋として九兵衛の名があるので、庄屋も息子に譲ったようです。甚兵衛は、役職や経営からすべて手を引き、隠居することになりました。実際に、このあと甚兵衛が土地売買などを行った記録はみられなくなります。剃髪には、洪水で亡くなった人々への思いもあったでしょう。また、付け替えをめぐる陰謀や対立などのさまざまな出来事から解放されたかったのでしょうか。

 正徳3年(1713)、75歳のときに「書置」を残しています。遺書と考えていいでしょう。そこには、甚兵衛が住む隠居地以外は、九兵衛と三郎平(五郎平が改名)で折半するように書かれています。享保元年(1716)と享保11年(1726)には書置が手直しされています。その内容から、今米村に九兵衛、川中新田会所に三郎平がそれぞれ居住し、別家とするようにという甚兵衛の考えの変化が伺えます。このころから、三郎平は河内屋ではなく、川中を名乗るようになっていたようです。

 享保10年(1725)、87歳のときに甚兵衛は稲葉安知の筆による肖像画を残しています。稲葉安知は、懐月堂の門人の一人です。この肖像画を秋季企画展で毎年展示していますが、甚兵衛が孫の甚之助と平蔵にあてた覚書が残されており、そこには「外へ出し見せ申す事無用」とあります。他人に見せるなということです。毎年多くの見学者に見られて、甚兵衛は怒っているかもしれません。

 享保15年(1730)9月20日、甚兵衛は92歳の生涯を終えました。墓は今米墓地とは別に、京都東山の浄土真宗本願寺派大谷本廟西大谷墓地に営まれました。波乱に満ちた長い生涯ですが、甚兵衛にとってはあっという間の人生だったのかもしれません。

(文責:安村俊史)

甚兵衛の肖像画
写真:甚兵衛の肖像画

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