大和川つけかえと中甚兵衛~5~

2019年9月22日

付け替え工事への参加

 元禄13年(1700)、14年(1701)にも、今米村周辺で大洪水があったようです。14年には、今米村で米の収穫がなかったということです。そのあと、検分に来た幕府の役人たちに、それまでと同じように治水工事の実施をお願いしたところ、付け替えを検討していることを知らされたようです。甚兵衛たちは驚いたことでしょう。付け替えはまったく取り上げてもらえず、治水工事さえ満足に行ってもらえず、付け替え運動もほぼ終息していたといっていいでしょう。ところが、いきなり付け替えを検討していると知らされたのですから。その後、甚兵衛は何度も奉行所に呼び出されて意見を求められたようです。そして、元禄16年(1703)10月、正式に付け替えが決定しました。

 それまでの付け替えについての見識や対応が評価されたのでしょう、甚兵衛は百姓でありながら、普請御用として付け替え工事に参加することになりました。おそらく、現場監督のような仕事を任されたのでしょう。息子の九兵衛ら数名も一緒に参加したようです。このとき、幕府の普請奉行に大久保甚兵衛忠香という目付がおり、甚兵衛はその下で働くことになったので、大久保に遠慮したのでしょう名前を甚兵衛から甚助に変えています。それ以降の史料には、甚兵衛という名も見えますが、大半は甚助となっています。

 それにしても、貞享4年(1687)以来十年以上ものあいだ、見向きもされなかった、そして運動もほとんど終息していた付け替えを、なぜ幕府は決断したのでしょうか。もちろん、直前の洪水も幕府の判断に影響を与えたでしょう。しかし、それだけではなく、大名を工事に参加させる大名手伝普請とすれば、大名たちにも費用負担を負わせ幕府の負担が軽くなること、その幕府の負担も旧川筋の新田開発に伴う入札金でまかなえるという方法を考え出したからです。実際に、付け替え工事で幕府が負担したのは約37,500両、新田開発に伴う落札金は約37,000両でした。しかも、新大和川の河川敷となった潰れ地の4倍の面積が新田となり、そこからはこの先ずっと年貢が上がってくるのです。つまり、付け替え工事は、幕府に利益をもたらす工事だったのです。これが、幕府が付け替え工事を決断した理由でしょう。このような方法があるという相談に、甚兵衛も知恵を貸していたのではないでしょうか。

(文責:安村俊史)

甚兵衛陣羽織
写真:甚兵衛着用の陣羽織

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