大和川つけかえと中甚兵衛~2~

2022年2月25日

甚兵衛の前半生

 中甚兵衛は、寛永16年(1639)に河内国河内郡今米村に生まれました。父の名を九兵衛などと書かれたものもありますが、現存する史料からは、父や母の名は確認できません。甚兵衛には太郎兵衛という兄がいたことがわかっていますが、兄についてもよくわかりません。

 明暦2年(1656)に父が亡くなり、その翌年、明暦3年(1657)に甚兵衛は江戸へ下っています。この江戸下りは、一般には大和川の付け替え嘆願のためといわれていますが、甚兵衛が江戸で何をしていたのかを示す史料はありません。幕府に嘆願するためには、各村の庄屋らが印を押した嘆願書が必要であり、個人が口頭でお願いできるようなものではないので、嘆願のために江戸にいたというのも納得できません。

 また、丹北郡城蓮寺村の「新大和川堀割由来書上帳」(寛政8年・1796、『松原市史』第5巻)に、「下河内村々願始より元禄十六未年迄、凡四拾五ケ年ニ成申由」とあります。元禄16年(1703)の45年前から付け替え運動が始まったということです。45年前(江戸時代は昨年が2年前となる。)ならば万治2年(1659)であり、甚兵衛の江戸下りよりもあとになります。これらの史料から考えると、甚兵衛の江戸下りと付け替え嘆願とは直接関係なかったと考えたほうがよさそうです。

 甚兵衛は寛文12年(1672)に今米村に帰ってきます。足掛け16年も江戸にいたことになります。確かなことは、甚兵衛が江戸で200両余りの大金を蓄えて帰ってきたことです。今の4,000万円くらいになるでしょうか。百姓で歳も若い甚兵衛が、どのようにしてこの大金を手に入れたのかわかりません。もしかすると、甚兵衛が江戸へ下る直前に明暦の大火と呼ばれる大火事があり、江戸の町の多くが焼けてしまいました。その後、町の復興に伴って利益を蓄える人も多かったようです。甚兵衛もこのような仕事をしていたのかもしれません。

 甚兵衛は今米村に帰った翌年に結婚しています。そして、その翌年と次の年、延宝2・3年(1674・75)に、寅卯洪水と呼ばれる大洪水がおこりました。甚兵衛も洪水の恐ろしさを身をもって体験したのです。

(文責:安村俊史)

「乍恐口上書」江戸下り部分
写真:「乍恐口上書」の甚兵衛の江戸下りについて書かれた部分。

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