安宿郡の古墳と寺院~10~

2019年6月2日

昆支と高井田山古墳

 『日本書紀』によると、飛鳥戸氏の祖とされる昆支が渡来したのは雄略5年(461)とされます。昆支は、百済国王であった兄の蓋鹵王の妻を娶って日本に向かいますが、途中の各羅嶋(かからじま)で妻が出産します。それが嶋君でのちの武寧王です。蓋鹵王は475年に高句麗の攻撃で殺害され、百済は都を漢城(ソウル)から熊津(公州)へ遷し、文周王が即位します。百済の『三国史記』によると、昆支は百済に帰り、477年に内臣左平となり、その年のうちに亡くなったということです。文周王、三斤王ののち、東城王、武寧王と昆支の子が二代続けて百済の王になっています。

 昆支やその子が長らく日本に居住していたのですから、日本に住み着いた子孫もいたことでしょう。飛鳥戸氏が実際に昆支の血をひいているかどうかはともかく、百済の王族の血をひくと意識していたことはまちがいないでしょう。

 昆支の渡来に関連するのではないかと考えられる古墳に、高井田山古墳があります。高井田山古墳の所在地は大県郡になりますが、昆支が渡来してしばらく後の5世紀後半か末ころの古墳です。初期の横穴式石室は百済の石室に酷似し、ひのしなどの副葬品、夫婦合葬という埋葬形態、石室内への土器副葬などから、百済からの渡来氏族夫婦の古墳と考えています。しかも石室規模や武寧王陵出土品に酷似するひのしの出土などから、王族クラスの人物が想定されます。

 また、5世紀後半ごろから大県遺跡で鍛冶生産が盛んになります。その技術も渡来系氏族がもたらせたものと考えてまちがいないでしょう。昆支らが渡来するときにやってきた人物が高井田山古墳に埋葬され、彼らが引き連れてきた技術者の一部が大県遺跡で鍛冶生産を始めたのではないかと考えられます。このような技術者や学者などが多数渡来したのでしょう。

 『三国史記』には昆支は百済へ帰って亡くなったと記されています。しかし、『日本書紀』には昆支の帰国記事はみえません。昆支の子らがその後も日本に残っていたことを考えると、昆支が混乱する百済に帰らず、日本に残っていたことも考えられるのではないでしょうか。もし昆支が日本で亡くなったと考えると、高井田山古墳が昆支の古墳であると考えることもできるでしょう。

(文責:安村俊史)

高井田山古墳の横穴石室
写真:高井田山古墳の横穴式石室

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