安宿郡の古墳と寺院~1~

2019年3月31日

安宿郡(あすかべぐん)とは

 柏原市の南東部と羽曳野市の南東部は、古代に安宿郡(あすかべのこおり・あすかべぐん)と呼ばれました。この安宿郡がどのような郡だったのか考えてみたいと思います。

 大化の改新(645)の翌年に出された詔によって、国のもとに評(こおり)が設置され、評の下に「サト」が置かれたと考えられています。「サト」は当初「五十戸」と表記され、7世紀末には「里」と表記されるようになりました。五十戸で一つの里が構成されていたので、五十戸もサトと読みました。一戸は一軒の家ではなく、血縁関係にある大家族を中心とするもので、10~30人で一戸を構成していました。

 それが大宝令(701)によって、評が郡に、里が郷に改められました。評も郡も「コオリ」、里も郷も「サト」と読みます。これによって、国のもとに郡、郡の下に郷が置かれ、さらにその下に里が置かれることになりました。後に里は廃止され、国-郡-郷の体制となり、この体制が長く続きました。

 10世紀前半につくられた『和名類聚抄』には、全国の国・郡・郷がまとめられています。ここに河内国安宿郡がみえ、安宿郡には賀美(かみ)・尾張(おわり)・資母(しも)の三つの郷があったと記されています。また、正倉院文書の天平20年(748)「写書所解」には、安宿郡奈加郷とみえます。奈加郷は『和名類聚抄』にはみえないのですが、賀美が「上」、資母が「下」と考えると、奈加は「中」と考えて間違いないでしょう。そのように考えると、奈加(中)郷が尾張郷に変わったのではないかと考えられます。賀美郷は飛鳥周辺、奈加(尾張)郷は玉手山周辺、資母郷が国分周辺と考えられます。

 また、『日本書紀』雄略天皇9年条に、「飛鳥戸郡人、田辺史伯孫」とみえます。交換した馬が埴輪の馬に変わっていたという有名な赤馬伝説の話です。ここにみえる「飛鳥戸郡」は安宿郡のことと考えて間違いないでしょう。そもそも「安宿」を「あすかべ」とは読めませんが、「飛鳥戸」ならば「あすかべ」と読むことができます。もともと飛鳥戸評だったのが、奈良時代には二文字の良い字に改めるようになり、「安宿」という文字を当てることになったのでしょう。

 つまり、7世紀中ごろに河内国飛鳥戸評だったのが8世紀に安宿郡に変わり、上・中・下五十戸が賀美・奈加・資母郷へ、そして奈加郷は尾張郷へと変化したのでしょう。

(文責:安村俊史)

安宿郡周辺航空写真
写真:安宿郡周辺航空写真(南西から)

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