わずか8か月の大工事~9~

2018年11月11日

柏原藩

 丹波国柏原(かいばら)藩は、現在の兵庫県丹波市柏原町、もとの氷上郡柏原町にあたります。慶長3年(1598)に、織田信包(のぶかね)が伊勢国安濃津(あのうつ)より移ったことに始まります。元禄8年(1695)には、織田信休が大和国宇陀郡松山より2万石で藩主となりました。信休の父・信武が家臣2人を殺した宇陀騒動とよばれる事件のため、その長男・信休が減封のうえ2万石で柏原へ移ることになったのです。その信休のときに、大和川つけかえ工事の手伝いを命じられました。

 柏原藩には、『藩政日記』が残っており、その「宝永元甲申年日記」には、大和川付け替えが命じられてから完成するまでの藩の動きが記録されています。それによると、6月28日に藩主信休に大和川付け替え工事の手伝いが命じられ、7月12日に国許に奉書が届き、すぐに役人が現地の普請役所へ向かい、7月末から工事に着手しています。非常にあわただしかったようです。また、7月29日には、途中で撤退した姫路藩担当分の入用金1,378両3歩を高取藩とともに負担するよう命じられています。柏原藩の工事箇所は、十三間川を南へ延長する工事を主とし、築留堤防の築堤、新川の切通し、幕府工事箇所の堤防への芝貼りなどを行っています。十三間川は、大阪湾岸近くを南北に通り、淀川から住吉などへの舟運に利用されていました。この川を新大和川まで延長し、旧大和川を利用していた剣先船などの舟運として利用できるようにしたものです。そして、10月13日には、「大和川切違辰刻首尾好相済候由」と記されています。

 しかし、大和川付け替え工事による出費は、2万石の小藩には負担が大きかったようです。柏原に移った信休は、できるだけ早く屋敷となる陣屋を造りたかったようですが、付け替え工事によって藩の財政が苦しくなったため、陣屋が完成したのは、正徳4年(1714)のことでした。

 その陣屋は今も一部が残っており、整備されたうえで一般に公開されています。陣屋の前には柏原歴史民俗資料館があり、柏原藩の歴史を学ぶことができます。

(文責:安村俊史)

柏原藩陣屋跡
写真:柏原藩陣屋跡

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