わずか8か月の大工事~7~

2018年10月28日

三田藩

 摂津国三田藩は、今の兵庫県三田市周辺にありました。天正10年(1582)に山崎片家が三田城主となったことに始まり、山崎氏のあと、有馬氏、松平氏と藩主がかわり、寛永10年(1633)に志摩鳥羽(三重県)から移った九鬼久隆が藩主となりました。久隆は、もとの三田城内に陣屋をかまえ、3万6千石の藩でした。九鬼氏といえば、秀吉のころに水軍として活躍したことを思い出します。それが九鬼氏の家督争いを機に、水軍力の解体を目論んだ徳川家光によって、三田と丹波国綾部に二分されました。これ以降、明治まで三田藩の藩主は九鬼氏が務めました。

 大和川つけかえ工事の手伝いを命じられたのは、九鬼氏七代目の隆久のときでした。隆久は、延宝8年(1680)に柳生藩主(奈良県)の柳生宗在の次男として生まれ、六代目九鬼副隆の養子となって、元禄10年(1697)に七代目をつぎました。宝永4年(1707)に藩主をゆずったあと、享保7年(1722)6月23日に43歳で亡くなりました。

 三田藩は、城蓮寺村から庭井村までの23町(2.5km)の工事を担当しました。西除川の流路と交差する部分や、依羅池(味右衛門池)の中を通る部分などがありますが、工事としては、比較的楽な区間ではなかったかと思います。川底の掘り下げはほとんどなく、両岸の築堤が主な工事でした。それでも、大変な工事だったことにはかわりはないでしょう。

 三田藩の陣屋は、旧三田城の跡にあり、御館は現在の三田小学校の敷地にありました。石垣などが残り、簡単な説明版が立てられています。そこから道路と堀跡を隔てた北側に有馬高校があり、その敷地内に二の丸、御茶屋、武器庫、煙硝蔵などがありました。堀と石垣が昔の陣屋を思い出させてくれます。そこから歩いて5分ほどに旧九鬼家住宅資料館があります。家老職を代々務めた九鬼家の住宅で、明治9年(1876)に建てられた擬洋風建築の内部には縁の人々に関する展示などがあります。

(文責:安村俊史)

三田城跡
写真:三田城跡

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