わずか8か月の大工事~5~

2018年10月14日

姫路藩

 播磨国姫路藩は、世界遺産姫路城で有名な兵庫県姫路市にあった15万石の藩です。慶長5年(1600)に池田輝政が播磨国に52万石余りで三河吉田から入部したことに始まります。藩主は、池田氏、本多氏、松平氏とかわったあと、天和2年(1682)に松平直矩が豊後日田(大分県)へ移され、陸奥福島(福島県)から移った本多忠国が藩主となりました。

 忠国が藩主を務めていた元禄16年(1703)に幕府から大和川付け替え工事を命じられ、翌年2月に工事に着手しました。工事現場の監督や警備役、技術者など370人以上を現地に派遣して2月27日から工事を始めました。しかし、3月21日に本多忠国が急死したため、すべての人が姫路に帰り、工事は中断することになりました。忠国の子が幼かったため、本多家は越後村上(新潟県)に移され、付け替え工事も免除となりました。

 姫路藩による付け替え工事は、川下から上流に向かっての水盛(みずもり)から始めました。水盛とは、地面の高低差を測る測量のことで、現在は水準測量といいます。水盛を行う一方で、川下より築堤工事に着手したようです。撤退までの1か月足らずのあいだに、遠里小野村まで10町(約1.1km)の工事を進めていましたが、堤防は未完成でした。のちに手伝いに追加された柏原藩が堤防の不足工事を行っています。水盛は付け替え地点に近い志紀郡太田村付近まで進んでいましたが、残りは幕府が引きついでいます。

 中家文書に「大和川御用 本多中務大輔殿家来」という史料があります。そこには、大頭・藤江善右衛門、大奉行・服部将監など、57人の役人の役職と名が記され、足軽小頭10人、足軽305人とあり、合計すると372人となります。足軽は現地で人足として働き、これに現地で雇用された人足も加わっていたのでしょう。

 補修工事が終わって真っ白になった姫路城には、平日でも入城待ちの長い列がみられます。ほとんどの人が見たこともなかったであろう遠くはなれた大和川の付け替え工事を命じられた藩主や家臣の驚きはどれほどだったでしょう。しかし、幕府の命令であるかぎり、断ることはできません。それが、藩主の急死、工事からの撤退、越後への移封とつづき、忠国とその家臣は大変な思いをしたことでしょう。

(文責:安村俊史)

姫路城
写真:姫路城

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