わずか8か月の大工事~4~

2018年10月7日

工事が早くできた理由・3

 工事を早く終えることができた三つめの理由として、工事区間を分割して一斉に工事に着手したことがあげられます。現在の道路や鉄道の工事でもよく行われる工区割りという方法です。上流側半分は幕府が担当し、下流側を東から岸和田藩、三田藩、明石藩が分担し、同時に工事を行っています。

 その工区内を、さらに1町(109m)ごとに分割していたようです。丹北郡東瓜破村の文書に、「新川御普請南側五拾九番之御丁場」とあるようです(中九兵衛『甚兵衛と大和川』)。付け替え工事に際して、付け替え地点から海まで、1番から131番までの杭が打たれていました。東瓜破村のところには60番杭が打たれていたことがわかっていますので、おそらく59番の丁場とは、59番杭と60番杭の間、長さ1町分のことでしょう。そして、南側とあることから、左岸堤防の築堤工事だったことがわかります。この丁場を長原村の人物が請け負い、大坂釣鐘町の町人が下請けしていることが記されています。前回のコラムで紹介した方法で工事を行っていたことがわかります。

 このようにすれば、隣の藩や工区に負けたくないので工事を急ぎます。そして、工事を早く終わらせることができれば、宿泊費や食事代などの出費も抑えられます。請け負った人にとっては、利益が増えるということです。これが、工事が早く進んだ三つめの理由です。

 ところで、最初に手伝いを命じられた姫路藩は15万石でした。そのあと手伝いを命じられた三藩は、岸和田藩が5万3千石、三田藩が3万6千石、明石藩が6万石で、合計すると14万9千石となり、姫路藩とほぼ同じ石高となります。これも偶然とは思えません。また、最初は姫路藩に工事を任せるつもりで、工期を3年ほどとみていたようですが、姫路藩の撤退が決まると、すぐに幕府は上流半分を直営で工事し、残りを三藩に分担させるなど、迅速に対応しています。これが早く工事を終わらせることにつながっているのですから、結果的には分担させてよかったのではないでしょうか。

(文責:安村俊史)

大和川付け替え工事の設計書
図:大和川付け替え工事の設計書(新川普請大積り・中家文書)

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